収録されているのもののうち重要なのは、「顎十郎捕物帖」。これについて見ていこう。この捕物帳の傑作はあまり情報がなくて、雑誌「『奇譚」に1939年1月から1940年7月号にかけて連載されたそうな。戦時統制経済体制になって、紙の配給、割り当てに制限が出ていたのか、ときに普段よりも短いのがさしはさまれている。あと、作者の書き方は、口述-改稿-口述-改稿・・・という具合に念のいったもの。たぶん音読すると、会話のリズムの良さを感じられるだろう。そこまでやらなかったけど。
主人公は阿古十郎。顔の半分が顎ともいえる異相で、ついたあだ名は「顎十郎」。もっとも面と向かって呼ぶものはいない。うっかり呼んでひどい目にあったのが、何人もいる。幕府の書類書きの職にあるとはいえ、いっさいはたらくことはせず、大小名の中間部屋に入りびたっている。抜群の推理能力を持っていて、十手持ちのひょろ松が持ち込む難事件に顔を突っ込む。
捨公方 ・・・ 12代将軍(家慶)の息子はじつは双子。もう一人の行方は知れず水野公がもう一人を握っているらしい。すわ大事というわけで秘密を知る僧侶に女中が争奪戦を繰り広げる。行方は三つの文字でわかるが、悪党の仕業でちぎれてしまう。顎十朗、ひょんなことから秘密を知り、片割れの居場所は五、大、鹿としれる。さて公方はどこにいるのか。
稲荷の使 ・・・ レギュラーメンバーの庄兵衛、花世の紹介。北町奉行所はとある事件を担当。事件の重要な証拠である印籠を手に入れ庄兵衛親分、大切に管理していたが、あるとき印籠は消失。出入りのものも、屋敷のものも不審はいない。となると、印籠は屋敷の中にあるはず。ではどこに消えたか。顎十朗は寝転がっている間に、謎を解く。
都鳥 ・・・ 馬の尻尾が切られる事件が50件もおき、厩班の武士が辞世の句を残して腹を切った。唐から取り寄せたという呉絽織が大流行、花世とのぞくと奇妙なことに都鳥(カモメだな)が織り込んである。そのうえ、比丘尼が入水自殺しているのが発見されたが、尼の数に異常はない(登録制でだれがどこにという台帳ができていたらしい)。さてこの三題話から何がみえてくるか。
鎌いたち ・・・ 江戸の街を鎌いたちが暴れまわっている。すでに5人がなにか鋭利なもので首を切られている。物取りではなく、たんに殺しているだけの異常殺人者。顎十郎は鱚(キス)釣りに庄兵衛を誘い出したが、何をたくらんでいるのか。あっという間に解決してしまうあっけなさ。途中をもう少し膨らませてほしかったなあ。
ねずみ ・・・ ライバル藤波友衛とせんぶりの千太登場。ある商人の家で、夕食を共にしていた家族と手代計6人。そのうち3人がコレラで死亡した。生き延びたのはまぬけな手代に、懸想している商店の娘。ひょろ松はなにかあるともくろんで手代を締め上げ、自白を得た。しかし藤波と顎十郎、それぞれ事件の真相に気付く。これもあっけない内容。まあ、藤波と顎十郎の初顔合わせで、顎十郎の剣捌きをうかがえるのが楽しみ。あと顎十郎が中間部屋に入り浸っている次第が語られる。
三人目 ・・・ 清元千賀春という婀娜な年増が手酌で飲んでいるところを死んだのが発見された。死因もわからないが、藤波は乳房の下に小さな傷を見つけ、針を刺したのだ、と推測する。そこで、千賀春に懸想する按摩を締め上げた。顎十郎も藤波も按摩が犯人ではないと断言し、調査に乗り出す。もうひとりの恋敵に、若い娘との諍いもあって、錯綜したプロット。うーん、でもその理由ではちょいと苦しい。
紙凧 ・・・ 今年鋳造した小判を納品する船が、夜中、ほかの船と衝突した。右往左往してやっと届けて、箱を開けると千両箱の大半が古釘、小石にすり替えられている。船が出るのは直前決まるから、きっと金座(鋳造所)の中に、情報を伝えたやつがいるらしい。という目鼻をつけて藤波は動く。トマス・フラナガン「アデスタを吹く冷たい風」と比べられたし。
氷献上 ・・・ 加賀殿の屋敷では毎年6月に氷を出すことになっていた。冬にふった雪を桐の箱に詰め、さらにむしろと雪と土で固めたのをその日に開けて将軍様に献上するわけだ。この献上駕籠を突き飛ばして、桐の箱を盗んだ浪人がいる。その桐の箱は、別の浪人(せがれが高熱でうなされていて雪を是が非でもほしい)の家の上り口においてあった。さて、だれの仕業でしょう。懐中時計を駆り出し、事件を再現させ、顎十郎自らが江戸市内を駆け回るという滑稽で、実証的な謎解き。
丹頂の鶴 ・・・ 将軍の年中行事に鶴御成というのがあって、毎年鷹匠に鶴を取らせ、朝廷に献上するのであった。鶴御成は専用の区画で厳重に管理し、今年はことに将軍の愛でた「瑞陽」なる鶴が飼われている。ところが、鶴御成の前日に「瑞陽」が胸に傷を負って死んでいた。将軍の耳にも藤波と顎十郎の名が聞こえ、なんと前代未聞の捕物御前試合の儀となった。落ちのつけかたがうまいね。
野伏大名 ・・・ 顎十郎のもとに名と所属を隠した侍が助けを求めにきた。藩の世継ぎに名乗りを上げたものがいて、城内混乱のさなか、二人ともいなくなってしまった。それを探し出してほしいという。行く先のめぼしは「すさきの浜」の一言。そんな故事を知っているものはだれもいないよ。というわけで、講談話を楽しもう。
御代参の乗物 ・・・ 紀州候の腰元はいずれも武芸の達人。その披露会を目前にして、腰元しめて24名が芝居見物にでかけた。おりしも南蛮人殺傷の事件が起きて、木戸は六つで閉じ、その後はいちいち駕籠数と人数を記録しないと通れない。そういう厳重な警戒態勢で、腰元14人が失踪した。神隠しとしか思えないのだが。ここでも藤波と顎十郎が鍔競り合う。
咸臨丸受取 ・・・ 江戸中の盗賊、悪党どもが鳴りを潜めている。ひょろ松は気が気でない。一方、大黒尊像の版画が大いに流行っているが、どうも絵の中身が普段と違う。そこで顎十郎、咸臨丸の代金25万両が長崎に送られることを聞きつける。珍しい暗号小説。こういう時代ものに絵解きを組み合わせると、暗号小説は生き延びる。荒俣宏が狂喜しそう。
前半12編が終了。いったんここで切ることにする。
顎十郎という異相の持ち主で、侍の徳義から妙に外れた風来坊を主人公にしたのが一興。半七だろうが佐七だろうがむっつり衛門だろうが平次だろうが、幕府の体制を補完する一官吏であって、妙にまじめで正義感が強く、ときに法と権威でもって事件を解決するだろう。でも、この愛すべきものぐさは、飯と酒(飲むシーンはあまりない)があれば万事快調で、背伸びしたところがなく、法も権威も頼れない。なので、正義の味方になったり(「咸臨丸受取」)、超法規的な解決にすることもあるし(「氷献上」「丹頂の鶴」)。ここらの小説の落とし方がいろいろあるのが面白いところ。武家の次男、三男坊は家禄を継げず、行き場のない飼い殺しであったとすると、顎十郎のノンシャランさは彼らの理想であるのかも。まあ、対英米戦争開戦前で、中国との10年戦争に目鼻のつかない鬱屈した時代と、書くことを制限された作家の有様を顎十郎に投影しているのかも。
まあ、先に都筑道夫のパスティーシュ(「捕物帳もどき」「顎十郎捕物帳」)を読んでいて、その差異をみると、久生版では大名の事件が多いことと、藤波との確執というか競争が多いのが気になったな。
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