「ハムレット 久生十蘭「日本探偵小説全集 8」(創元推理文庫)には「顎十郎捕物帳」全24話と「平賀源内捕物帳」4話が収録。それらは別エントリーで感想を書いたので、残りの短編を読むことにしよう。
2019/07/26 久生十蘭「日本探偵小説全集 8」(創元推理文庫) 顎十郎捕物帖-1 1939年
2019/07/25 久生十蘭「日本探偵小説全集 8」(創元推理文庫) 顎十郎捕物帖-2 1939年
2019/07/23 久生十蘭「平賀源内捕物帳」(朝日文庫) 1940年
湖畔 1937 ・・・ 親の過剰な期待を受けたために、その場をごまかし体裁をつくろうことにたけ、努力を放棄していながら、自尊心の強さのゆえに他人に傲岸な態度で臨むというまことに近代が生んだ怪物のような男。卑劣卑怯な心性を持ち、軽薄浅膚な虚飾心の持ち主と説明される。ロンドンからパリに遊んだ時に、つまらぬ女の取り合いで決闘になり、臆病がのぞいたときに、顔にひどい傷跡を作る。帰国後は、華族主義の論客となるも、英国の文献を翻訳したにすぎない。そこに可憐な18歳の乙女が現れる。男は妻にするも、厳格な態度で臨み、もとより家を顧みない。しかし、妻が産後の体調不良で箱根の別荘で休んでいるとき、不倫をしている現場に乗り込み、妻を殺害する。その場で自首し、しかし精神錯乱を主張して無罪を勝ち取るも、実は惰弱な性情で妻を殺してはいないのであった。そして妻がふたたび男の前に現れ、愛を告白してから、男の心情は二転三転する。犯罪を主としているものの、重要なのはこの複数の人格に分裂した男の冷静な自己分析。見かけと内面の違い、複数の仮面を交互につけて人々をいいように惑わす。このような複雑な心情はやはり20世紀になってからのもの。マン「詐欺師フェリークス・クルルの告白」、サルトル「一指導者の幼年時代」の国内版。この国の産では、扇動者にはならなかった。それはフランス、ドイツとの精神の違いかな。どこが違うのかは説明が難しいなあ。
昆虫図 1939 ・・・ 年増と暮らす画家がいる。友人など持たぬ男であるが、地隣りの画家が遊びに行くと、年増はいない。代わりに銀蠅がおびただしい。それから数週間すると、今度は蝶の大群。遊びに行った画家の妻が故郷の話をする。なにがあったかはわからないけど、異様な雰囲気の漂ってくるモダンな怪談。
ハムレット 1946 ・・・ まったく見事な短編の傑作。物語の骨格だけ記すと、1910年代に学生たちの劇団で「ハムレット」を上演することになった。とくにハムレット役の小松の熱の入れ方はすさまじく16世紀のイギリス人になるほど。事件は上演中に起こる。剣劇シーンでハムレットが幕の後ろに隠れたきりでてこない。そして窓から落ち、石畳で頭を打っているがみつかる。以来、小松=ハムレットは狂気に陥る。それから30年。空襲におびえる東京で、狂気の小松を看護することになったホレーショ役の祖父江。祖父江は、クローデアス王役の阪井とオフェーリア役の琴子の夫婦に雇われたのだが、性格学を修めた祖父江からすると先天性の犯罪者と見える。実際、彼らは共謀して、小松=ハムレットを事故にあわせ、小松の財産を横領したのだった。今は、小松=ハムレットの正覚で刑事と民事で告訴されることを恐れている。大空襲のあった夜、阪井は小松に「死んでくれ」と頼む。ここの会話が絶妙。きっと何度も声にだして読み上げては改訂したのだろう。なるほど新劇の上演運動は1910年代にはじまり、ときに映画とも協力しながら、舞台を充実させるべく情熱と金を注ぎ込んできたのだった。その一員に久生がいて、このような本邦作には珍しい舞台ものの探偵小説が書かれたのである。謎解きの妙よりも犯罪を中心にした変態心理の描写なのであるが、煽情的にならず、細かい心理の綾を描く文章はみごと。落ちも見事。構成もこれ以外にありえない。素晴らしいなあ。
参考 小栗虫太郎「オフェリア殺し」
マイケル・イネス「ハムレット復讐せよ」(国書刊行会)
水草 1947 ・・・ 嫌な男がアヒルを飼っているから、ひねってビールを飲もうと悪友が言い出した。しばらくして帰ると、アヒルの胃から人間の頭髪と耳飾りが出てきて・・・。解決をあいまいにして、読者の想像力を膨らませる怪奇小説で、ショートショート(というのはまだこの国にはなかったけど)。
骨仏 1948 ・・・ 戦争中、機銃掃射で妻を殺された陶芸作家。火葬の番が回ってこないので、作家は自分の窯で妻を焼き、骨を仕事場においている。珍しく機嫌よく酔った作家は、美しい白を出すには人間の骨が秘中の秘といった。骨をどうやって入手したのだろうか、なあ。ここでも落ちはあいまいで、読者の想像力でもって作家の心根を探るしかない。
犯罪は物語の中心ではあるがその解決は主題ではない。捕物帳はともあれ謎とその解決があっても、ここに収録された短編やショートショートでは謎解きはない。論理とかトリックとかには興味をあまりもっていなかったとみえる。捕物帳でも新規なトリックを編み出したということはないし。
ではどこに興味をもっていたかというと、犯罪に関与する人々(上記の短編をみると犯罪を企画し、実行する人)の心理にあったとみえる。心理の丁寧な描きでもって、怪物みたいな暴力とか破壊力などを暴こうとしたのかなあ。ただ、心理の描き方が独特なところがある。これは谷崎とか乱歩、あるいはアイリッシュのように主人公の心理に密着して、作者と主人公がほぼ同じであるような書き方との違い。この3人の短編でサスペンスであると、主人公に感情移入することを強要するというか、それ以外の読み方ができないような仕掛けになっている。でも、十蘭の書き方だと主人公でも突き放していて、遠くから観察しているような具合。一人称の独白である「湖畔」でも、主人公の心理や意識は読者に共犯であるような誘いはなくて、主人公自身の自己分析、それもとびきり冷静で観察力の高い抽象的な意識が書いた論文を読むよう。そのような突き放した、というか、外側から見つめる抽象的な視線と科学的な観察がこの人のありかたかな。たぶん舞台に上がっている役者を観客席の後ろから演出しているような感じなのだろう。こういう覚めた、しかも明晰な視線というのは、この国の文章ではなかなかみられなくて、自分もそのような視線を持つのが難しく、当惑してしまった。すごい書き方をしていて、完璧な構成なのだけど、どうにも自分の居場所がみつからなくて居心地が悪いという気分。
同じ時代の「異端作家」に小栗虫太郎と夢野久作がいて、いずれも欠点をもっている(細部に拘泥して構成が弱い、下手に思われる文章、「そりゃありえねーだろー」という稚気などなど)けど、その欠点ゆえに愛好するという読者を持っている。自分もそういうひとり。でも十蘭となると、完璧にすぎ、取りつく島もないほど冷たさがあって、遠巻きに眺めるしかない。そんな絶世の美女を思わせる。
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