odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フェードル・ドストエフスキー「宣告」(米川正夫訳)

4 宣告

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ここでついでに、退屈のために自殺したある男、もちろん、唯物論者のある考察をお目にかけよう。

「……まったくのところ、いったい自然はどういう権利があって、何かえたいの知れない永遠の法則のために、このおれを世の中へ生み出したのだろう?おれは意識あるものとして則られた、ゆえにこの世界を意識した。自然はいかなる権利をもって、人の承諾も得ないで、おれを意識あるものとして生み出したのか?意識するものとは、とりもなおさず、悩むもののいいだ。が、おれは悩みたくない――なぜなら、悩むことに同意するはずがないからである。自然はおれの意識を通して、なにかしら全体としての調和とやらをおれに告げ知らせる。人類の意識はこの告知からふんだんに宗教をこしらえた。自然はおれに告げて曰く、お前は自分で、『全体としての調和』に参与することなど、現在も未来もできないし、またそれが何を意味するか理解することもできっこないのを、よく承知はしている。が、それでもやはり、お前はこの告知にしたがって諦めをつけ、全体としての調和のために苦悩を受け入れ、生きることを承諾しなければならないのだ、と。しかし、意識して選択するとすれば、もちろん、おれはただ自分が存在している問だけ幸福でありたいと思う。全体だの調和だのというものは、おれが無に帰してしまえば、その全体や調和がおれの死後この世に残ろうと、またはおれといっしょに亡びてしまおうと、われ関せず焉(えん)である。そもそもなんのために、おれは死んだ後までもその保存をさほど心配しなければならないのか、――ひとつ伺いたいものだ?こんなことなら、いっそ理知的に自己を意識しないで、ただ生きているだけの動物として創られたほうがましなくらいだ。おれの意識にいたっては、それこそ調和どころか、反対に不調和なのだ。なぜなら、おれは意識あるがゆえに不幸だからである。見ろ、この世ではたしてだれが幸福なのか、どんな人間が生きることに賛成しているか?それはほかでもない、動物に似ている連中だ、意識が十分発達していないため動物のタイプに近い連中なのだ。この連中は喜んで生きることに賛成するが、それは要するに動物として生きること、すなわち、食い、飲み、眠り、巣をつくり、子供を生むことを条件としてである。人並みに食い、飲み、そして眠ることは、金儲けをし、掠奪をすることであり、巣を造るということは、主として掠奪して来ることである。あるいは人これに反駁して、いままでのように掠奪によらずとも、理知的な基礎と、科学的に正しい社会的精神に立って、身のおさまりをつけ、巣を営むことができる、とこういうかもしれない。よろしい、かりにそうだとして、ひとつおたずねするが、それはなんのためか?なんのために身のおさまりをつけるのか、また人間社会において、正当に、合理的に、通徳的に、正しく身のおさまりをつけるために、なぜそれほどの労を喪やすのか?もはやこれに対してはもちろん、何人(びと)もおれに答えられるものはあるまい。答えることができたとしても、それは『享楽を得んがために』というくらいが関の山だろう。もしおれが草花か牝牛ででもあったら、なるほど享楽も得たであろう。が、今のように、のべつ自分で自分に問題を出していたのでは、たとえ近きものに対する愛を感じ、人顛からも愛されるという最高直接な幸福を享受しているにもせよ、おれは幸福であることはできぬ。なぜなら、明日にもそれらのすべてが無に帰してしまうことを、承知しているからである。おれも、この幸福ぜんたいも、愛も、人類も、――なにもかも空に帰し、もとの混沌に化してしまうのだ。このような条件では、おれはなんとあっても、いかなる幸福をも受け容れるわけにゆかない。受け容れることに賛成する気がないからでも、主義のための依枯地なんてもののせいでもなく、ただ明日にも零に帰するおそれがあるといったような条件では、幸福になり得ないし、未来も幸福ではないからである。これは感情である。直接にくる感情である、だから、おれは、それに打ちかつことができない。まあ、かりにおれが死んだとしても、せめて人類だけでもおれの代わりに永久に残ってくれたら、なんといっても気休めになったかもしれない。しかし、ご承知のとおり、わが遊星は永遠のものではなく、人類にも期限がある、――それは、おれの場合と同じく、ただの一瞬にすぎない。いかに理知的に、喜ばしく、正直に、聖者のごとく人類が地上に生活を築いても、――それが明日ことごとく同じ零に帰してしまうのだ。よしんばこれがなんのためか知らないが、ある全能にして永遠な、死せる自然律によって必要なものであるにもせよ、誓っていうが、この思想の中には、なにか人類に対する深甚な軽視が含まれていて、それがおれにひどく屈辱を感じさせ、そこにだれも責任者がいないだけに、いっそう我慢のならぬものになってくるのだ。

「そこで、とどのつまり、ついに人間がこの地上に理知的、科学的な基礎の上に生活を築くというお伽噺を、可能なものと仮定して、それを信じ、ついに来るべき人類の幸福を信ずるとしても、――人類をこの幸福へ達せしめる前に、数千年のあいだ責めさいなむことが、自然にとってはその蒙昧な法則上、必須であると考えただけでも、ただこれだけ考えたばかりでも、すでに憤慨おくあたわざるほどである。さて、そのうえにかてて加えて、ようやく人間に幸福を許したその同じ自然にとっては、人類がこの幸福のために払ったあらゆる苦難にもかがわらず、この幸福をすべて明日の日、無に帰してしまうことがなぜか必要なのである。しかも、何より重要な点は、自然は牝牛には隠しているのに、おれの意識にはこれをいささかも隠そうとしないことだ。こう考えてみると、知らずしらずひどく愉快な、しかし、やりきれないほど憂鬱な考えが頭に浮かんでくる。『もし人間というものが、こんな生物でも地上に住みおおせるものかどうかというずうずうしい試みのために、地上へ放たれたものだったらどうだろう?』こう考える悲哀のおもなところは、――ここでもやはり資任者というものがなく、だれもそんな試みをしたものもなければ、だれをも呪うべき人がなく、ただすべては、おれにとって不可解で、おれの意識とはどうしても一致できない死んだ自然律によって生じたことである。Ergo(かかるがゆえに)――

「幸福に関するおれの問題に対しては、おれ自身の意識を通して自然から、『お前には理解もされないし、また明らかに永久理解することのできない全体としての調和の中においてのみ、お前は幸福であり得る』という答えを与えられているがゆえに、――

「自然は、説明を要求する権利をおれに認めてくれないのみか、ぜんぜんおれに答えようともしない、――しかも、答えることを欲しないためではなく、答えることができないからでもあるがゆえに、――

「自然はおれの問いに答えるために、おれ自身をおれに任命し(無意識的に)、おれ自身の意識をもっておれに答えている(なぜなら、おれはこれらすべてを自分にいっているのだ)、かく確信したがゆえに、――

「最後に、かような状態では、おれは同時に原告と被告、犯人と裁判官の役を引き受けることになる、しかも、おれはこの喜劇を、自然の側からいえば、まったく愚劣なものと見なすし、おれの側からいえば、こんな喜劇を我慢することはむしろ屈辱である、かく考えるがゆえに、――

「それがゆえに、おれは原告と被告、裁判官と犯人の紛れなき権能を行使して、かくも無作法にずうずうしくおれを苦難のために生み出した自然を、おれとともに破滅すべしと宣告する……が、おれは自然を滅却することができないから、おれ一個を滅ぼす。ただし、それは単に、責任者のない暴虐を忍ぶ味気なさから、のがれるためにすぎないのだ。N・N」

 

 

第2章 3 言葉だけの確定

 

わたしの小文『宣告』は、人間生存の根本的な最高思想、――人間霊魂の不滅を信ずることが欠くべからず、避くべからざる緊要事である、という点にふれているのである。「論理的自殺」で滅びゆく人のこの懺悔の裏打ちは、自分の魂とその不死を信ずることなしには、人間の生存は不自然であり、考えることもできないほどたえがたいものであるという結論が、すぐその場で必要なことである。そこでわたしは、論理的自殺者の公式を明瞭に表現し、発見したような気がしたのである。不死に対する信仰は彼にとっては存在しない、彼はそれを冒頭に説明している。彼は、自分の無目的を思う心と、唖のごとき周囲の蒙昧に対する憎悪によって次第次第に、地上における人間の生存がまったく無意義であるという、必然的信念に到達する。生きることに同意し得るものは、ただ下等動物に似た連中だけであることが、彼にとっては火をみるごとく明らかになってくる。この連中は自覚の発達が遅れているのと、純肉体的な要求の発達しているおかげで、より多く動物のタイプに近づいている。彼らは動物として生きること、すなわち「食い、飲み、眠り、巣を作り、子供を産む」ために生きることに同意しているのである。おお、牛飲馬食すること、眠ること、汚すこと、柔らかいものにすわることは、なおなお長いあいだ人間を地上にひきつけてゆくだろうが、それは高級のタイプではない。ところで、高級なタイプは現在でも地上に君臨しているが、過去においても常に君臨していた。そして、いつもとどのつまりは、時到れば、数百万の人間が彼らの後にしたがって進んだものである。いったい崇高な言葉、崇高な思想とはなんであるか?この言葉、この思想(それなくしては人類が生きてゆけないもの)を最初に口にするのは、貧しい、目立たない、なんらの意義をも持たない、きわめてしばしば迫害を受けて、迫害のうちに名もなく死んでゆく人々である場合が、最も普通である。しかし、思想は、しかし彼らの口から発せられた言葉は、死んでしまうということはない、決して跡かたなく消え失せはしない。いったん口から発せられた以上、断じて消え失せることのできないものである。これは人類にあって驚嘆すべきことでさえある。かくして、次の世代となるか、あるいは二、三十年もたつと、天才の思想はすでに万物万人をつかみ、万物万人をひきつけてしまう、――その結果、凱歌をあげるのは大衆でもなければ、一見いかにも恐ろしく確固不動に見える物質力でもなく、金銭でもなく、剣でもなければ、権力でもなくて、初めはいっこうに目立たない思想である。しかも、一見して人間の中の屑と見える何者かの思想である場合もしばしばである。

エンペ氏は、わたしの日記にこうした懺悔の現われることは、「笑うべきみじめな時代錯誤として役立つ(いったいだれに、何に役立つか?)」と書いている……けだし今日は「鉄のごとき観念の時代、積極的な意見の時代、なんとあろうとも生きねばならぬという旗幟を把持している時代だから!」とのことである……(そのとおり、そのとおり!おそらくそれなればこそ、今日、知識階級にこれほど自殺者が殖えたのであろう)。わたしはエンペ氏を初めそれに類した人々に断言するが、この「鉄」は時いたれば、一個の思想の前に羽毛にもひとしいものとなってしまうものである。その思想が初めのうち、「鉄のごとき観念」を有する諸君にとって、いかにくだらないものに思われようとも、この事実には変わりがないのだ。わたし一個に関していえば、わが将来、それもきわめて近い将来にとっての最も恐るべき杞憂の一つは、ほかでもない、わたしの見るところをもってすれば、ロシヤの知識階級のきわめて多くの、いな、あまりに大きな部分に、一種特殊な、奇怪な……はて、なんというか……宿命によって、おのれの霊魂とその不滅に対する完全な不信が、異常な加速度をもって、次第に深く根を張ってゆくことである。この不信は信念となって、根を張っていくばかりでなく(何事にまれ、信念というものはわが国にはまだきわめて少ないが)、この人間生存の最高思想に対する奇怪な無関心主義となって根を張ってゆき、滑々と一世を風靡(ふうび)してゆくのである。この無関心主義たるや、いったいどこから、どういう法則によって、わが国に発生したのかわからないが、時としては噸笑的な性質をおびており、ただにこの思想一つにかぎらず、生活的ないっさいのものに対し、人生の真実に対し、生命を与え養い、人生に健康をもたらし、その腐敗と悪臭を駆除するいっさいのものに対して、無関心な態度をとるのである。この無関心主義は現在、他のヨーロッパ諸国民と比較して、ほとんどロシヤの特性にさえなっている。それはすでに、早くもロシヤの知識階級の家族に侵入して、もうほとんどそれを破壊してしまった。最高の思想なくして、人間も国民も存在することはできない。ところで、地上における最高の思想はただ一つしかない、すなわち人間霊魂の不滅に関する思想である。なぜなら、人間の生活が依存しているそれ以外のすべての「崇高な」人生思想は、ただこの思想から流れ出るものだからである。このことについては(すなわち地上におけるいっさいの崇高なものは唯一の源泉しか持たぬということについては)、人々はわたしと争うことができよう。しかし、今のところわたしは議論にわたらず、ただ言葉だけのうえで自分の思想を提出しておく。一度で説明は困難だから、ちょっと仄めかしておくほうがよかろう。さきにゆっくり暇があろう。

わたしの自殺者は自己の思想、つまり自殺の必要という思想の熱烈な表現者であって、無関心主義者でもなければ、鉄のような人間でもない。彼は実際なやみ苦しんだ、このことはすでにわたしが明瞭に表現したはずである。自分が生きてゆかれないということは、彼にとってあまりに明白である。そして、その考えが間違いのないものであり、それをくつがえすことが不可能なのを、彼はあまりによく知りすぎている。彼の前には最高にして最初の疑問、「動物的に生きるということは人間としていまわしい、変則な、不十分なものであることを意識した時、人ははたしてなんのために生くべきであるか?かかる場合に、何が彼を地上に引きとめるか?」という疑問が、否応のない力をもって立ち塞がっているのである。これらの疑問に対する解決を得ることは不可能であり、彼もまたそれを承知しているのである。なぜなら、彼の表現を借りると、「全体としての調和」のあることは認識したけれども、「自分は」と彼はいう、「それを理解しない、いつになっても理解する力がないし、自分自身でそれに参与することがないとすれば、これはもう必須のことで、自然の帰結なのだ」からである。つまり、この明瞭さが彼にとどめを刺したのである.いったい不幸は那辺に存するのか、彼は何を誤ったのか?不幸のもとはただ一つ、不死に対する信仰の喪失である。

しかし、彼は自身熱心に和解を求めている(いな、生きている間じゅう求めたのだ、苦しみ求めたのである)。彼はそれを「人類愛」のうちに見いだそうとした。「自分はだめだとしても、人類は幸福であり得るだろう。そして、いつかは調和に到達するだろう。この思想は自分を地上に引きとどめることもできたはずなのだ」と、彼は不用意に口をすべらせている。これはもういうまでもなく、寛大な思想である。寛大な、そして殉教者的な思想である。しかしながら、人類の生命は本質的に見て、彼自身のそれと同じく束の間のものにすぎず、「調和」の達成されたその翌日は(この空想が達成されるものと信じるとして)、人類は自然の蒙昧な法則に引きずられて、零に帰してしまう。しかも、それがこの空想実現のために、あれほどの苦悩を忍んだ後なのである。この牢固として抜くべからざる信念が、この思想が、彼の魂を根底から憤激させるのである。つまり、人類に対する愛から憤激を催させ、全人類のために侮辱を感じさせ、そして、――思想反擬の法則によって、――彼の内部における人類愛そのものをすら殺してしまうのである。これと同様のことは、われわれの再三目撃するところであって、例えば、餓死に瀕している一家にあって、父親なり母親なりが、ついに子供たちの苦痛がたえがたいものになると、その苦しみが見ていられないばっかりに、あれほどかわいがっていた子供たちを憎みだすものである。のみならず、わたしは断言するが、苦しんでいる人類を助けることはおろか、せめてなんらかの利益なり苦痛の緩和なりをもたらすことについて、おのれの完全なる無力を意識すると、この人類の苦悩を心底から確信しているだけに、――その人の心にいだいている人類愛が、人類に対する憎悪に変わることすらあり得るのである。鉄の観念を持つ紳士がたは、むろんこんなことは信じないだろうし、第一、おそらく頭から理解しないであろう。彼らにとっては、人類に対する愛とか、人類の幸福とかいうようなものは、なにもかも、今さら考える値うちもないほど安価に、便宜に作られたものであり、とうの昔に与えられ、書かれたものなのである。しかし、わたしは徹底的に彼らを笑わせてやろうと思っている。わたしは公言するが(またしても今のところ証明ぬきで)、人類に対する愛は、――人間の霊魂の不滅に対する信仰と共存するのでなければ、とうてい考えられもせず、理解もされず、またまったく不可能なのである。人間から人間の不死に対する信仰を奪って、人生の高い目的という意味におけるこの信仰を、「人類に対する愛」とすり換えようとするものは、わたしはいうが、われとわが身に手をかけんとするものである。なぜなら、それは人類に対する愛の代わりに、ただ人類に対する憎悪の胚子を、信仰を失ったものの心に植えつけるにすぎないからである。鉄のごとき観念を抱懐する賢人らは、かような断定を聞いて、勝手に肩をそびやかすがよい。しかし、この思想は彼らの明知よりも賢明であり、いつかは人類の公理となるであろうことを、わたしは信じて疑わないものである。ただし、わたしはまたしてもこれを今のところ、単に言葉のうえだけで提示しておくにとどめる。

人類に対する愛は、一般にいって、――思想としては、人知にとって最も理解しがたい思想の一つであることを、わたしはあえて断定し言明する。つまり、思想としてである。それを是認し得るのはただ感情のみである。しかし、その感情も、人間霊魂の不滅に対する信念と共存する場合においてのみ可能なのである(これもやはり言葉のうえだけのことにしておく)。

右の結果として、不死の観念喪失に伴う自殺は、その発達においていささかなりとも畜類に優った人間にとっては、あくまで避けがたい必要なものとさえなるのは明白である。それどころか、不死は永遠の生を約束しつつ、それによって人間をますます強く地上に結びつけるものである。こういえば、一見矛盾しているようにさえ感じられるかもしれぬ、――もし生命がそんなにたくさんあるとすれば、つまり、この地上のもの以外に不死の生命まであるとすれば、なにも地上の生命をそれほど尊重することはないではないか?ところが、事実はまったく反対になるのである。なぜなら、人間は自己の不死を信ずる場合にのみ、地上生活における自己の合理的な目的を捕捉するものだからである。おのれの不死に対する信仰がなかったら、人間と地との絆は切れかかってきて、だんだん細ってゆき、だんだん朽ちやすくなってしまう。そして、人生の最高意義の喪失は(たとえそれが単にきわめて無意識的な憂愁の形において感じられるにもせよ)、疑いもなく自殺を招来するものである。ここから逆に、わたしの十月号の論文の教訓が生じてくるわけである。すなわち、「もし不死に対する信念が、人間の生存にとって、しかく必要なものであるとすれば、それは当然、人類の正常な状態であるわけである。そうとすれば、人間の霊魂の不滅そのものも、疑いなく存在するわけである」 手っとり早くいえば、ドストエフスキー 作家の日記01ボボーク他これがあの文章の目的であって、あれを読んだ人は、だれでも否応なしに会得するはずだと、わたしは思っていた次第である。

 

 

フェードル・ドストエフスキー「作家の日記」1876年10月

 

フョードル・ドストエフスキー「全集14 作家の日記 上」(河出書房)

昭和45年6月20日 初版発行

昭和50年7月15日 9版発行


 
 
 フェードル・ドストエフスキー「作家の日記」1876年10月
 
 フョードル・ドストエフスキー「全集14 作家の日記 上」(河出書房)
 昭和45年6月20日 初版発行
 昭和50年7月15日 9版発行