3 ロシヤの誕刺文学 処女地 終焉の歌 古い思い出
わたしは今月文学、つまり美文学、「純文学」にも精進した。そして、なにやかや夢中になって読破した。ついでながら、わたしはさきごろロシヤの調刺文学、――といって、現代の、今日のわが調刺文学なのであるが、――に関するある外国批評家の意見を読んだ。それはフランスで発表されたものである。なかんずく、その結論のひとつが注目に値するものであった、――原文のいいまわしは忘れたが、意味は次のようなことであった。「ロシヤの調刺文学は、あたかもロシヤの社会における善き行為を恐れているかのようである。そうした行為に出くわすと不安におそわれて、どこかこの行為の裏に随劣漢を見つけるまでは、安心ができないのである。見つけるとさっそく、大喜びで叫ぶのだ。『これは決して善い行為ではない、なにもいつこううれしがることなんかありやしない、ごらんのとおり、ここにもやっぱり随劣漢が隠れているではないか!と
この意見は正鵠をうがっているだろうか?わたしはそうとは信じない。ただわたしが知っているのは、わが国の調刺文学は数々の立派な代表者を持っていて、目下大流行だということだけである。世間ではひどく調刺文学を愛好しているが、しかし少なくとも、わたしの確信するところでは、この同じ世間はそれよりも、むしろ肯定的な美をはるかに好んで、それに飢え渇している。レフ・トルストイ伯などは疑いもなく、あらゆる傾向のロシヤの読書階級に、最も深く愛されている作家である。
わが国の調刺文学はいかに華々しくても、実際、多少曖昧なのが欠点である、――とまあ、これくらいのことはいえるだろうと思う。時とすると、全体として、わが調刺文学が何をいおうとしているのか、てんで想像のつかないことがある。当のご自身のほうに、まるで裏づけがないのじやないか、と思われるほどだが、そんなことがあってよいものだろうか?調刺文学ご自身のほうは、何を信じているのか、なんのために暴露をやるのか、――それは未知の闇の中に沈んでしまう、といった形である。書くほう自身が何をもってよしとしているのか、さっぱり見当がつかない。
で、この問題について思いをひそめると、変な気持ちになってくる。
ツルゲーネフの『処女地』を通読し、第二編を待っている。ついでに一言するが、わたしはもうかれこれ三十年も書きつづけているが、この三十年間にしじゅう幾度となくあるおかしな感想が頭に浮かんでくるのだ。わが国の批評家たちは、だれもかれも(わたしはほとんど四十年近くも文学に目をさらしている人間だが)故人になったのも現存しているのも、一口にいえば、わたしの記憶しているかぎりの批評家は、今のことにせよ昔の話にせよ、現代ロシヤ文学に関して、多少でも晴れの舞台で何か総評でも始めると(例えば、以前、各雑誌が正月号に、前年度の概観を載せたものである)、必ずきまって、「文学がかかる衰退を示せる現代において」とか、「ロシヤ文学がかかる停滞にある現代において」とか、「文学の不振時代たる現在において」とか、「ロシヤ文学の沙漠をさまよいつつ」等々と同じようなきまり文句を、いくらか程度の相違はあるにしても、実に喜んで使いたがるのである。調子は種々まちまちに変わっているが、内容は一つことだ。ところが、事実において、この四十年間には、プーシキンの晩年の作が現われ、ゴーゴリの芸術が始まって終わり、レールモントフが活躍し、オストローフスキイ、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、その他少なく見つもっても十指を屈するにたる、きわめて才能高き文学者が出現したのである。それも美文学の分野だけでである!ほとんどいかなる時代、いかなる文学を取って見ても、わが国のごとくかような短い期間に、かように多くの才能ある作家たちが、かように連続して、間断なく出現したというような例はまたとない、と断固として明言することができる。にもかかわらず、わたしは今でも、現につい先月あたりにも、またぞろロシヤ文学の停滞とか、「ロシヤ文学の沙漠」とかいう言葉に出くわしたのだ。もっとも、これはわたし一個のおかしな感想にすぎない。それに、事柄はまったく無邪気な、なんの意味も持たないことである。ただちょっと苦笑を誘われる程度のものだ。
『処女地』については、わたしはむろん何もいわない。だれもが第二部を待っている。それに、わたしが何かいうべき筋合いでもない。ツルゲーネフの芸術の価値には、疑いをさし挾むものはないはずだ。ただ一つだけいっておきたいのは、この長編小説の九十二ページ(『ヨーロッパ報知』参照)の上から十五行ないし二十行の間に、わたしをしていわしむれば、作品の全思想が凝集されていて、あたかも著者のその主題に対する見解が残らず表白されているかのようである。道憾ながら、この見解は、ぜんぜん誤ったものであって、わたしはそれに根本から不同意である。これは、小説中の一人物ソローミンに関して、作者の述べた数言である。
『祖国雑誌』の一月号で、わたしはネクラーソフの『終焉の歌』を読んだ。いつものネクラーソフに見らるるとおりの激烈な歌であり、いいたらぬ言葉ではあるが、ここにはなんという悩ましい病者の呻きがきこえることか!わが詩人は病いが篤いのだ、――彼自身がわたしにいったところによれば、――彼は自分の病状をはっきりと知っているのである。けれど、わたしはなんとなく信じられない。……これは強靭な、感じやすい肉体組織を持った人間である。彼は無惨に苦しんでいる(彼は腸に何かの潰瘍ができているのだが、はっきり診断しがたい病気なのである)が、わたしは彼が春までもたないなどとは信じない。春になったら、少しも早く外国の温泉に出かけ、異なった気候の影響で恢復するものと、わたしは信じてやまないのである。人間同士のあいだというものは、奇妙なことがあるものである。わたしとネクラーソフとは、生涯あまりしばしば会わなかったし、二人の間には気まずいこともあった。しかし、わたしたちの仲には、永久に忘れ得ないような一事件が存在している。それはほかでもない、われわれの生涯における最初の邂逅である。しかもどうだろう、近頃ネクラーソフを訪ねて行ったところ、彼は疲愈(ひはい)しつくした病人でありながら、開口一番その当日のことを回顧したではないか。その時(それはなんと三十年前のことなのだ!)なにかしらこう若々しい、新鮮な感じのする、悦ばしいこと、――それにあずかった人の心に永遠に残るようなあることが生じたのである。
わたしたちは二人ともそのころ二十歳そこそこであった。わたしはペテルブルグに住んでいたが、自分でもなんのためやらわからずに、すこぶる暖昧な漠然とした目的をいだいて、工兵将校の職を退いてから、すでに一年たった時である。折りしも一八四五年の五月であった。その冬の初め、今までなんにも番いたことがないくせに、わたしは急に自分の最初の中編小説『貧しき人々』に着手したのである。書きあげはしたものの、それをどうしたらいいやら、だれに渡したものやら五里霧中であった。わたしにはD・V・グリゴローヴィチよりほかには、文学上の知己など皆目なかった。しかも、そのグリゴローヴィチでさえ当時はある文集に載せた『ペテルブルグの手風琴師』という小さな短編以外、まだなに一つ書いてはいなかったのである。そのとき彼は郷里の田舎へ避暑に出かける準備をしながら、当分ちょっとの間ネクラーソフのもとに同居していたように思う。その彼がわたしのところへやって来て、「原稿を持って来たまえ」といった(彼自身もまだ読んでいなかったのである)。「ネクラーソフが来年文集を出そうといっているから、ぼくがあの人に紹介してやろう」わたしは原稿を持って行き、ほんのちょっとネクラーソフに会った。わたしたちは互いに手を握り合った。わたしは自分の作品を持って来たのだという考えのためにてれてしまい、ネクラーソフとはほとんどひとことも口をきかないで、そうそうに帰ってしまった。わたしはあまり成功などということを考えなかった。それにこの『祖国雑誌』の一党(当時の言葉を借りると)をおそれていたのである。ベリンスキイはすでに何年も前から夢中で読んでいたが、彼その人は薄気味の悪い、恐ろしい人のように思われた。「あの人はおれの『貧しき人々』なんか、一笑に付してしまうだろう!」といったような気が折々していた。でもほんの時おりには、「おれはあれを熱情をもって、ほとんど涙を流さんばかりにして書いたのだ、――いったいあれがみんな、おれがペンを手にしてこの小説に向かいながら体験した、あの賢い数々の瞬間が、――すべていっさい虚偽なのだろうか、空中楼閣なのだろうか、誤った感情だったのだろうか?」しかし、わたしがそう考えたのは、もちろんほんの刹那刹那で、たちまち猜疑の念が立ち戻るのであった。原稿を渡した日の晩に、わたしはどこか遠くに住んでいる一人の旧友のところへおもむき、一晩じゅう『死せる魂』のことを語り合って、もう何度目か覚えていないが、またぞろこの作品を読み合ったことである。これはその当時、若い人たちの間の流行で、二、三人のものが集まるとすぐ、「諸君、ゴーゴリを読もうじゃないか!」といって、テーブルにむかって読みはじめ、徹夜することさえ珍しくなかったのである。当時の青年たちの間には、きわめてきわめて多くのものが、何かに心魂を貫かれて、なにものかを期待しているようなふうであった。
わたしが帰って来たのはもう午前四時ごろで、昼のように明るいペテルブルグの白夜であった。ちょうど素晴らしい気持ちのよい時候だったので、わたしは自分の部屋へはいっても、床につかず、窓を明けて、窓際に腰をおろした。とつぜんけたたましいベルの音がして、わたしをひと通りならず驚かした。やがてグリゴローヴィチとネクラーソフが、歓喜の絶頂といった様子で、わたしに飛びかかって抱擁しはじめる。二人とも、ほとんど泣かないばかりなのである。彼らは前の晩、早く家へ帰って来て、わたしの原稿を取り出し、試しに読みはじめた。「十ページも読んでみたら見当がつくだろう」というわけだったのである。けれども十ページ読んでしまうと、さらにもう十ページ読むことにした。それからはもう原稿を手から放すことができず、一人が疲れると、代わって朗読するというふうにしながら、とうとう朝まですわり通してしまったのであった。「ネクラーソフはね、大学生の死の場面を読んでいると」と、後で二人きりになった時、グリゴローヴィチがわたしに教えてくれた。「ふいとぼくが兄ると、父親が棺の後を迫って走る、あすこのところまでくると、ネクラーソフの声がと切れるじゃないか、それが一度ならず二度までなんだからね。とふいにこらえきれなくなって、蝋で原稿を一つたたきながら、《ええっ、こいつめ!》といった。これはきみのことなんだぜ。こうして、二人は夜あかししてしまったのさ」読み終わったとき(なんと、印刷して七台分の原稿なのである!)さっそくわたしのところへ押しかけようと、異口同音に決議した。「眠ってたってかまやしない。たたき起こしたらいいんだ、これは睡眠以上だからね!」
その後、ネクラーソフの性格をじっと観察するにおよんで、わたしはあのときのことに、しばしば一驚を禁じ得なかった次第である。彼は引っ込み思案で、ほとんど猜疑心が強いといってもいいくらいで、用心深く、めったに心中をうち明けないたちであった。少なくも、わたしにはいつもそんなふうに思われた。そういうわけで、わたしたちが最初に会ったこの瞬間は、真に最も深刻な感情の発露であったのだ。彼らはそのおりわたしのところに三十分ばかりいたが、この三十分間に、わたしたちはどれだけのことを話し合ったかわからない、一口いわないさきに相手の考えを理解し合い、感嘆の叫びを発し、せき込みながら、芸術を語り、真実を談じ、「当時の情勢」を論じ、また『検察官』や、『死せる魂』などを引用しながら、ゴーゴリを語ったのは、いうまでもないが、しかし主として、ベリンスキイのことを話しあった。「わたしは今日にも早速あなたの小説をあの人のとこへ持って行きます、そしたら、おわかりになると思いますが、――いや、あの人の人物といったら、実になんて人物でしょう!やがてあなたも近づきになったら、どんな心の持ち主かおわかりになりますよ!」とネクラーソフは、わたしの両肩に手をかけてゆすぶりながら、感きわまった調子でいった。「さあ、これでおやすみなさい、おやすみなさい、わたしたちも帰りますから。明日はうちへ来てください!」まるで彼らの来訪のあとで、わたしが眠ることができるとでもいったようないいぐさだ!なんたる歓啓、なんという成功、が、何よりかんじんなのは、その時の感情が貴かったのだ、わたしははっきりと覚えている。「まあ、たいていの人は成功といったところで、まあ褒めてもらったり、会ったときにお祝いをいってもらったりするだけのものだが、あの人たちは目に涙を浮かべて駆けつけて、朝の四時にたたき起こすではないか。なぜなら、それが睡眠以上だから、というのだ……ああ、なんていい気持ちだろう!」こんなふうのことをわたしは考えた。それなのに、どうして眠ってなどいられようぞ!
ネクラーソフはその日のうちに、原稿をベリンスキイのところへ持って行った。彼はベリンスキイに随喜渇仰し、おそらく一生を通じて、だれよりも彼を愛していたらしい。当時まだネクラーソフは、その後間もなく、一年ばかりたって書き始めたような、大規模のものは書いていなかった。ネクラーソフは、わたしの知っているかぎりでは、十六の年にたった一人ぼっちで、ペテルブルグへ出て来たので、書き出したのもやはりほとんど十六歳時分からであった。彼とベリンスキイの交遊については、わたしもあまり多く知るところがないけれども、ベリンスキィはそもそもの初めから彼を見抜いて、おそらく彼の詩境にいちじるしい影響を与えたものと思われる。当時のネクラーソフのはなはだしい若さと、彼らの間の年齢の差にもかかわらず、二人の間にはすでにその頃からして、生涯に影響をおよぼした断ちがたい絆で結びつけるような瞬間があり、またそのような言葉が交わされたのである。「新しいゴーゴリが現われましたよ!」とネクラーソフは『貧しき人々』を持って、彼の家へ入って行きながら叫んだ。「きみたちにいわせれば、ゴーゴリがまるで雨後のきのこのように生えてくるんだからな」ベリンスキイは厳しくたしなめたが、それでも原稿は受け取った。ネクラーソフがその晩、また彼のもとへ立ち寄ったとき、ベリンスキィは、「ただもうわくわくとして」彼を出迎えた。「連れて来てくれたまえ、早くその男を連れて来てくれたまえ!」
こうして(それは、だから、もう、三日目のことである)、わたしは彼のところへ連れて行かれた。忘れもせぬ、一目見たとき、彼の外貌、彼の鼻、彼の額が、わたしをひどく驚かした。わたしはなぜか彼を、――「このものすごい恐るべき批評家」を、まったく別人のように想像していたのである。彼はひどくものものしげに、控え目な態度でわたしを迎えた。「なに、仕方がない、これがほんとうなのだろう」とわたしは心に思った。けれど、一分とたたぬうちに、なにもかもがらりと変わってしまった。あのものものしさは、二十二歳の駆け出し作家を迎える名士の、大批評家のポーズではなく、彼が一刻も早く流露させようと思っていた感情と、むやみに急いで発しようとした重大な言葉に対する、尊敬から出たものであった。彼は燗々と瞳を加賀谷かしながら、燃えるような調子でいいだした。「いったいきみは自分でわかっているのですか」と彼はいつもの癖で、甲高い声を立てながら、幾度もくり返しくり返しいいだした。「あなたはどんなものを書いたのか、自分でわかっておいでですか!」彼ははげしい感情にかられて話すとき、いつも甲高い叫び声になるのであった。「きみはただ芸術家として直接な感受性で、これだけのものを書くことができたのだが、あなたは自分でわれわれに示されたこの恐るべき真実を、自分ではっきり意識しましたか?あなたが二十そこそこの年で、ちゃんとこれを理解していたなんて、そんなことがあろうはずがない。現にあなたの書かれたかわいそうな官吏にしても、長い勤めですっかり身心を消耗してしまって、虐げられたあまりに、自分を不幸なものと考えることさえあえてできないほどになってしまい、いささかでも不平がましいことは、ほとんど自由思想のように考え、自分は不幸の権利さえもたないものと思い込んでいるじゃありませんか。あの善良な人、あの上官の勅任官が例の百ループリを与えたときも、彼は自分のような人間を、『閣下様』がどうして憐れんでくださるのかと、驚きのあまり打ちひしがれ、たたきのめされたようになってしまう。しかも、先生がいうのによると、閣下は閣下でなくて、『閣下様』なんですからね!それから、あのちぎれて落ちたボタン、彼が閣下のお手に接吻する瞬間、――いや、ああなると、もう不幸な人間に対する憐憫どころか、恐怖だ、恐怖そのものだ――彼のこの感謝の中に恐怖があるのだ!これは悲劇だ!きみは物の本質に直接触れたのです、最も重要なことを瞥不したのです。われわれ、評論家・批評家たちは、ただそれを考察して、言葉で説明しようと努めるだけだけど、きみがた芸術家は一線一画をもって、ただちに形象の中に本質的な真髄を示し、手に触れるがごとく感知させ、どんな思索に縁遠い読者でも、忽然といっさいを悟ることができるようにするのです!これが芸術の秘密であり、芸術に表現されたる真実であるのです!これこそ芸術家の真理に対する奉仕の方法です!あなたは芸術家として真実を啓示され、告知されたのです、天賦として与えられたのです。だから、この天賦を大切にして、どこまでもそれに忠実にやってゆけば、やがて偉大な作家になるでしょう!」……
これらすべてを、彼はそのおりわたしに話したのである。これと同じことを彼は、後にほかの多くの人々に語ったが、それらの人々はまだ今でも生きていて、このことを証明することができる。わたしは酔えるがごとき心地で、彼のもとを辞した。わたしは彼の家の角に足を停めて、空を眺め、晴れた日を眺め、道往く人を眺めながら、全存在をもって感じた。自分の生涯における荘重な瞬間、いわば一つの転機が生じたのだ、なにかしらまったく新しいものが始まったのだ、が、それはどんなに空想に熱中した瞬間にも、予想すらしなかったようなものだ(わたしはその頃おそろしい空想家であった)。「いったいおれは真実そんなに偉大なのだろうか?」とわたしは、一種臆病な歓喜につつまれながら、心の中で恥ずかしそうに考えたものである。おお、どうか笑わないでいただきたい、わたしはその後も一度として、自分を偉大だと思ったことはない。が、その時は、――はたしてそれだけの印象にたえ得るものだろうか!「ああ、おれはあの讃辞に値するだけの人間になろう。だが、なんという人たちだろう、なんて立派な人たちだろう!ここにこそほんとうの人間がいたのだ!おれは期待にそむかないようにしよう、彼らと同じ立派な人間になるように努め、どこまでも『忠実』にやってゆこう!ああ、おれはなんと軽率な人間であるか、もしベリンスキイが、このおれの内部にどれだけやくざな、恥ずべきものがあるかを知ったなら!ところで、みんな文学者は傲慢だ、自尊心が強いというが、なんてたわごとだ。もっとも、ロシヤで人間らしいのはただ彼らばかりだ。彼らばかりではあるが、しかし彼らのみが真理を持しているのだ。真理、善、真実は、常に勝利をしめて、悪行と悪徳の上に凱歌を奏するのだ。われわれは勝とう、おお、彼らのもとにおもむこう、彼らとともに行動しよう!」
わたしはのべつこれらのことを考えたのである、そしてその瞬間の気持ちを、完全に、明瞭に想い起こすことができる。わたしはその後も永久に忘れることができない。それはわたしの全生涯を通じて、最も感激的な一瞬であった。懲役に行っても、これを思い出しながら気力を奮い起こした。現在でもこれを想い起こすたびに、感激を禁じ得ないのである。さて、それから三十年たって、わたしはついさきごろ、病めるネクラーソフの枕もとにすわりながら、この瞬間を残らず想起して、ふたたびこれを親しく体験するの思いであった。わたしは彼に向かって、詳しい回想談はしなかった。ただあの時こうした共通の瞬間があった、ということだけを口にしたのみであるが、彼自身も記憶していることを見てとった。わたしも、彼が記憶しているのは、承知だったのである。わたしが懲役から帰って来たとき、彼は自分の著作の中の詩を一つわたしにさし示した。「これはあの当時、あなたがたのことを歌ったんですよ」と彼はいった。しかも、わたしたちは一生離ればなれに暮らしてしまったのである。今や病苦の床で、彼は生活を終わった友だちのことを回顧して歌っている。
彼らの予言の歌はうたいつくされず
彼らはこの世の盛りの年に、裏切りと
憎悪の犠牲となって倒れた。彼らの肖像(すがた)は
責むるがごとく、壁の上からわたしを見つめて
ここでこの「責むるがごとく」の一言が苦しい言葉である。われわれはあくまで「忠実」であったろうか、はたしてそれに違いなかったろうか?それは、各人がおのれの良心の裁きに照らして、決すべきことである。が、とまれ、この苦悩者の歌をみずから誦して、われらの愛する熱情の詩人を復活させたまえ!苦悶の熱情に燃える詩人を!……
「作家の日記」1877年1月
河出書房「ドストエフスキー全集 15」作家の日記 下
昭和45年7月20日初版
昭和52年6月25日9版