通常、家畜やペットの殺害は器物損壊か動物虐待で扱われる。警察もそれほど熱心には捜査を行わない(21世紀にはパンデミック予防で大騒ぎになるけど)。なので1942年にイギリスの寒村で起きたチンパンジーの殺害事件に警察はさほど興味を覚えなかった。
でも、現場と関係者は単なる事故や虐待とは思えない。すなわち、それをもらいうけることになっている老婦人の家の中で殺害されていて、チンパンジーはナイフで刺殺されている。大量の血が流れている状況はほとんど人間の殺害行為に酷似しているのだ。さらに事態を錯綜させるのは、家の持ち主である老婦人が失踪していること。彼女は熱心な篤志家だったが、禁煙・禁酒主義者で村の唯一のパブを閉鎖させようと画策していた(1920年代のアメリカが禁酒法だったので、その影響か)。ほかにもいろいろ意固地で、しかし善意にあふれる人だったでの、村人は敬遠していて、家にいる秘書や居候の姪らは老婦人に憎悪をもっている。研究資金がなくなった動物学者は老婦人に資金提供してもらおうと思って交渉していたが、チンパンジーを二匹もらうことを条件にしていた。その二匹を連れて家に向かっていたが、途中で檻を逃げ出し、そのうちの一頭が殺されていた(もう一頭は森の中で見つかる)。
というような事情は、動物学者の依頼でチンパンジーの行方を捜すことになったトビーとジョージが関係者に質問することから次第にわかってくる。トビーとジョージは動物学者から委託されているからという理由で、関係者のプライバシーに入っていく。ここに違和感を覚えさせないのは、トビーとジョージのおとぼけな行動性向にあるのだろうな。トビーはときに相手を怒らせもするのだが、それでも受け入れられるのはすごいし、失敗してもめげない前向きな考えでいるのも。他の作家の探偵だと拒否や失敗を気にするものだけど(とくに男の探偵は)。
トビーとジョージが登場するシリーズの第4作。作者の筆はますますさえて、ことに女性の描写がよい。生真面目だが怒りっぽい秘書、頭があたたかいが親切そうな離婚経験のある美女の姪、動物研究に入れ込んで家族をないがしろにしている父を嫌悪するティーンエイジの娘など、それぞれの個性的なこと。微細な動きや感情の揺れ動きをちゃんと示せる観察力の優れていること。それこそ隣にいそうなリアリティを持っている。その一方、偏屈な動物学者や皮肉屋の牧師、わけありな大男の実験助手、仕事に不熱心な警官など男性キャラはどこか類型的。これはほかの作品でもそうなので仕方ない。
チンパンジー殺害事件があきらかにするのは、老婦人の偏執的なところ。まったく姿を現さない(巻末で驚愕の真相がでて、もう一度冒頭ページを読み直すことになるだろう)この女性が、見かけの善良さとは裏腹に、関係者(とりわけ個人的に近しい人たち)にいかに圧力や不快を与えていたか。その思い付きが迷惑になっていたか。ことに小金持ちになってから以降に起きた問題。それは深く潜っていて目に見えなかったが、チンパンジーという異者が来ることで一気に噴出してしまった。それによる人々の動揺と疑心暗鬼。これらは小説には描かれない(なにしろよそ者のトビーの手記だから)。でも解決の説明で一気に明らかになる。しかも多くの探偵小説のように壊れた関係は修復されない。それぞれが傷つき、不信を持ったまま、明日も暮らさなければならない。どうにも苦い後味(しかし結末は明るい。よそ者が去る場面だから)。
冒頭の謎(なぜチンパンジーが殺されたか)は、関係者の話を聞くことによって思いもよらないところにいってしまった。そのような広がりを物語にもたせ、最後の解決の説明で問題をあきらかにする技術はすごい。「その死者の名は」「細工は流々」で感じたもどかしさはここにはなくて、「自殺の殺人」とともにすばらしいできばえ。
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