odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ヘレン・マクロイ「月明かりの男」(創元推理文庫)

 巻末の著作リストによると1940年発表の第2作。発表年は重要。すなわち、ヨーロッパではナチスの侵略戦が続いていて連合国は劣勢。日本は露骨に中国南部への侵略を進めている。そこにおいてアメリカは中立にあって、いずれに戦争にも加担していないが、国際政治には関与している。またアメリカは中南米への経済侵略を進めていて、30年代不況のうえ戦争開始で投資できなくなった西欧諸国に変わって中南米の事業に投資している。その背景があって、ニューヨークにはドイツからのユダヤ人科学者と中国からの心理学者がいた。ふたりとも亡命者であるが、いずれも優れた研究成果をもっていたので、私立大学に職を得て、授業と研究を続けることができた。

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 さて、ある警官が大学で休憩しているときに、殺人指示書を拾った。気になって書かれた時刻の夕刻に監視をしていると、ホールに「殺人犯」を見つける。そっとあとをつけると、部屋に閉じ込められ、銃声が聞こえた。ダッハウ収容所を脱走して難民となった化学者が銃殺されていた。ホールから逃亡する「月明かりの男」が目撃されたが、証言が異なる。すなわち小男、大男、女性とそれぞれ証言したのだった。奇妙なのは、殺された化学者は公言している内容の研究を全くしていないこと。秘書がその研究に素人なのもわからない。さらに研究ノートが紛失している。
 大学のなかということで、関係者はとても限られている。奇矯な性格の実験心理学者(発見した殺人指示書は彼の模擬殺人という実験用だった)、その助手の学生、メキシコ帰りの精悍な社会学者(最近妻と別れたばかり)、中国から亡命してきた異常心理学者、金儲けに余念のない大学理事、資金繰りに困っている学部長。みかけはジェントルであるが、どうもそれぞれが互いを監視しているような緊張した雰囲気。それも戦争と資金難(と学外の不況)のためであるだろう。ときにナチススパイ疑惑も持ち上がる(ダッハウ収容所からの逃亡はありえないと思われていたため。中でなにをしていたかはわからなくとも、強制収容所の存在はすでに知られていたらしい)。警察の捜査顧問をしている精神科医のベイジル・ウィリングは毅然と捜査を進めていく。
 小説のほとんどは精神科医と警官による捜査。上にあげた学者や学生、大学関係者との話し合い。知的エリートとの話し合いのために、ときに会話も高尚になって、そこは読者の知力が要求される(がん研究やフロイト一派の精神分析犯罪心理学などの話題についていけるくらいの)。蘊蓄消費は楽しいのだが、気を付けないといけないのは、ほぼすべてのページにおいて伏線や証拠や謎が出てくること。カーやクイーンのような怪奇趣味や不可能犯罪はほぼない(せいぜいサマリーに挙げた証言の食い違いくらい)。かわりに、亡命科学者を殺さなければならない動機を探す必要がある。そうすると死者の行動や心理を想像しなければならないが、単身で亡命した中年男はほぼなにも記録を残していないので、ささいなことでも一生懸命調べなければならない。そのうえ社会と祖国の情勢悪化は研究に暴投できる良好な環境ではない。機会を見つけることに目を凝らしている連中ばかりなので、嘘と韜晦と証言拒否は常にあるのだ。
 とても目のつまったストーリー。死者のまわりに、各人の思惑が何重ものヴェールのように重なっているので、事件は単純そうにみえながらとても複雑なことになってしまった。なので、謎解きも死者の暴露と犯人の弾劾というふたつを行うことになる。そこで見えた構図の複雑さと言ったら! 事件の犯人はクイーンが得意な消去法で見つかるのであるが、犯人である条件を抜き出すこと自体が大変というとんでもないプロットがあったのだ。第2作とは思えない充実ぶり。この作家はただものではない。


(とはいえいくつかは瑕疵も。証言が食い違う説明はリアリスティックとはいえない。チェスタトンのような錯誤トリックを期待したのに、これはちょっと。天藤真「遠きに目ありて」所収の「多すぎる証言」のほうがスマートな説明。事件の動機についても。現在確定している利益保護のためというが、別の選択のほうがより利益拡大になるのではないか。1940年という時代でも、ちょっと通用しないと思う。)