odd_hatchの読書ノート

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アガサ・クリスティ「白昼の悪魔」(ハヤカワ文庫)

 西イングランドスマグラース島。ここのジョリー・ロジャー・ホテルは有名ではないが、名ホテルとして知られている。満潮には孤立するので、海水浴場や海岸などに一日限りの観光客が来ることもあるが、ふだんはホテルの宿泊者だけしかこの島にはいない。1934年夏、避暑に10数名の客がいた。そこに元女優のアリーナ・マーシャルが訪れると、妙な緊張が走る。その美貌の元女優は男女の視線を集め(「ヴァンプ」「イット」などで呼ばれる。当時のハリウッド女優のあだなだ)、好悪が極端に分かれるのだ。前日までの曇り空が晴れ、上天気になった朝、アリーナは人を避けて海岸に行く。ホテルの誰かとあいびきの約束があるらしい。あとから海岸にいったグループがうつぶせになったアリーナの死体を見つける。男の大きな手で絞殺されたらしい。しかし、ホテルに宿泊する男には、全員アリバイがあった。

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 冒頭から70ページをかけて、10数人の宿泊客の説明。おしゃべりからオールドミスに中年の実業家女性、牧師にインド呆けの元軍人、美男美女の夫婦、アリーナと結婚した大尉と前妻の連れ子、独り者の実業家。それに得るキュール・ポアロ。彼らの中身のないおしゃべりがうっとうしいのだが、会話だけで性格付けをしていくクリスティ女史の筆は生き生きとしている。すると、アリーナには男たちのさまざま欲望が向けられていて、アリーナもそれを手玉に取るのを楽しんでいるのがわかる。事件の現場からは麻薬(ヘロイン)の包みがみつかり、ホテルの中には黒魔術の道具に本がそこかしこにある。アリーナはゆすられてもいるらしく、それらしい書付も見つかる。という具合に、アリーナという「運命の女(ファム・ファタール)」の周りには、欲望と陰謀がたくさんあるらしい。
 1940年初出のこの作品は自分にとって「幻の本」。「地中海殺人事件」の映画が1982年に公開されたとき、その原作であると知ったのだが、なぜかずっと手に入れられなかったから(調べると映画公開当時単行本は出ていた。文庫化は1986年と少し遅れた)。タイトルもクリスティには珍しくゴシック・ロマンス風で、古いタイプの探偵小説と思って期待していたのだ。で、ようやく入手して読む。冒頭の島の設定から「そして誰もいなくなった」の孤島ものかと期待すると、少しずつずれていつものクリスティらしい群集劇・ロマンス劇になる。人物紹介に70ページを費やし、第1の殺人発覚まで20ページ、そこから160ページはえんえんと続く尋問とポアロの検討会。そこまでですでに全体の80%を使っている。残り50ページになって、麻薬の発見・ゆすりの証拠・黒魔術の痕跡が一気に出てきて、ポアロコンゲームが仕掛けられる。この悠々としたストーリーにはへこたれました。
 そのかわり、コンゲームで犯人が馬脚を現し、ポアロが窮地に陥った後の「さて、みなさん」は見事。なるほど、メインはよくある錯誤のトリックなのだが、それをしかける犯人の手配とプロットの複雑さ。そこに他の関係者の思惑や思い込みで、勝手に動いたものだから、ますます事件が混乱して見える。この手腕には目を見張らされる。とはいえ、そこに至るまでが長々しいものだから、自分の評価は低くなるなあ。自分がタイトルから思い込んでいたことに囚われていたせいかしら。
 途中、ある人物の部屋を見に行くのだが、本棚にカー「火刑法廷」1937年がおいてあるという描写があって、ほほえましかった。同じ国に暮らしながら、この探偵小説の大家は互いに接点がないと思っていたから。

  

 

1982年の「地中海殺人事件」。