odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「ゼロ時間へ」(ハヤカワ文庫) 「殺人準備完了」までを描くミステリは作家と読者の信頼関係について重大な問題を提起している。

 Toward Zero(原題。最初の邦訳タイトルは「殺人準備完了」だった。1950年代の探偵小説エッセイにはこの名で出てくる)の解説は福永武彦の「ソルトクリークの方へ@深夜の散歩」に尽きているので、それを読むのがよい。本書に収録されている(改版されたクリスティ文庫がどうなっているのかは知らない)ので、「深夜の散歩」講談社文庫を探して読まなくてもよい。もっとも、福永らの探偵小説エッセイは昭和30年代のこの国の知識人による探偵小説受容の様子がわかるので、読んでおいたほうがよい。
 さて、この先の自分の感想は屋上屋を架すようなものなので、興味のある人だけでよいです。趣向ばらしにちかいかもしれないので、未読の方は避けたほうがよい。

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 小説の冒頭は、名前性別職業不明の人物による殺人計画。それがいつか実現するだろうというのが、この小説を読み進める推進力になる。舞台は、イングランドの寒村ソルトクリーク。9年前に資産家夫婦が引っ越してきたが、夫が事故で溺死していた。引き上げるかという予想を覆して、老婆になったトレシフリン夫人は住み続けている。毎年、この家には人が集まることになっていて、今年もスポーツマンのネヴィルとケイのストレシジー夫婦にネヴィルの前妻オードリーに、ケイの友人のトッド・ラティマー、オードリーのいとこのトーマス・ロイド、夫人の知り合いの弁護士トリーヴスが館にくる。近くのホテルには、1年前に自殺未遂をしたマクハーターと、ポアロと一緒に事件を手がけたことのあるバトル警視(「チムニーズ館の秘密」「七つの時計」「ひらいたトランプ」「殺人は容易だ」に登場とのこと)がいる。口うるさく偏屈な夫人の世話をするのは従妹のメリィで、14-5年も使えている。ネヴィルが今の妻と前の妻を同じ家に招待するという暴挙にでたのは、10歳以上も年が離れて嫉妬深く短慮な今の妻ケイに愛想が付きそうなため。前妻オードリーとは、ドライブ中に別の男の友人と事故を起こし、責任をおって離縁していた。また弁護士は昔の事件で殺人犯を見逃し不起訴にしたという過去を持つ。まあ、こんな具合に過去を持っていて、もしかしたら殺人の原因になるかもしれない鬱屈を抱えていそうな人物がたくさんいる。容疑者が多く、過去の因縁はさりげなく書かれているので、メモを取らないと忘れてしまうかもしれない。
 案の定、オードリーとケイは角つきあわせるわ、ケイはトッドと仲良くなるわ、ネヴィルはオードリーとよりを戻そうとするわ、老夫人はケイの肩を持つわ、館の周囲を若者が徘徊するわ、と一触即発の緊張感が高まる。そしてトリーヴス弁護士がホテルの階段で心臓発作を起こして死亡し、老夫人が鈍器で撲殺されているのが発見される。現地に居合わせたバトル警視が手掛けることになり、あまり頭がよくないが誠実なバトルはポアロのやり方を思い出しながら、捜査を進める。
 福永は「ゼロ時間」という殺人実行の瞬間がクライマックスになる趣向を称賛していた。なるほど、幾多の探偵小説は死体や盗難の発見があってから物語が始まり、そこに至るまでの経過は探偵の解決において簡単に触れるにすぎない。そうすると、起きたことから過去を掘り起こすという捜査が主眼になるが、この書き方ではどの犯罪予備者が誰を被害者にしていつ実行するかを考えることになる。それまで事件らしい事件は起こらないので、世間話や痴話げんかやいちゃつきなどの退屈な話の情報から、「事件」を予測することになる。この小説でも、冒頭からしばらくは退屈極まりないのだが、それでも読み進めるのは読者が捜査や探索を行うようなディレクションがあるからだ。
 クリスティのすごいのは、この「ゼロ時間」というアイデアもレッド・ヘディングにしているということ。物語は上のように進むのであるが、読者は確実に間違った方向を追いかけてしまうだろう。そして、バトル警視の説明にびっくりすることになる。彼の長広舌を聞きながら、自分は過去の名作をいくつか思い出すことになる(明かせないので秘密の日誌に書いておこう)。その名作を思い出しながらこの小説にもどると、なぜ犯人の殺人計画が小説の冒頭に書かれているのか、その計画の後に描かれる館の物語が殺人計画と結びついていることを担保する理由はなにかというところまで考えることになる。そうすると、「探偵小説」やミステリの「謎‐捜査‐解決」という形式を作家は裏ぎらないという暗黙の前提があるから成り立つのだ、ということになる。その安心をもとに読者は読書を継続するのだ。そこを壊すような作品になると、読者は猛反発する。なにしろ、警察や探偵の追跡と、犯人の逃亡が交互に書かれながら、それが交差することのない「探偵小説」もあるくらいなのだ(「ゼロ時間へ」よりも先に発表。このblogに紹介済)。幸い、クリスティは作家と読者の暗黙の関係を壊すところまでやらない。すれすれのところまで踏み込むけど。
 クリスティの問題作というと、「アクロイド殺し」か「そして誰もいなくなった」だけど、この「ゼロ時間へ」も作家と読者の信頼関係についての重大な問題を提起していると思う。そういう指摘をした読み方はあるのかなあ。