odd_hatchの読書ノート

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隅谷三喜男「日本の歴史22 大日本帝国の試練」(中公文庫)-1 大日本帝国憲法発布(1889年)から明治天皇の死(1912年)まで。朝鮮半島と満州への侵略が始まる。

  大日本帝国憲法発布(1889年)から明治天皇の死(1912年)まで。だいたい司馬遼太郎坂の上の雲」と一致する時代を描いているが、司馬の小説は記述漏れが多く、小説の通りに近代国家が強化されたとみてはならない。多くの保守論陣はこの時代を懐かしむのであるが、ノスタルジーには粉飾が施されている。あえてこの時代のダメなところもみなければならない。
(蛇足。司馬遼太郎の小説は中学生の時に読み、高校生で歴史記述と一致しないのに疑義をもち、大学生になって捨てるというのが正しい読み方。大人、それも老年になってから熱中するというのは、過去にいかに勉強不足であったか、不熱心であったかを示すようなもの。)

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 たとえば、この国の自衛戦争としてとらえられている日清(1894年)・日露(1904-05年)の戦争であるが、そこには日本の朝鮮半島満州の「侵略」という視点が決定的に抜けている。すなわり日清戦争の原因には、朝鮮宮廷に対するクーデターを日本が支援したことに端をはっするのであり、朝鮮が清の従国であるという体制を無視して開国や近代化を迫ることに正当化する理由はない。実際、宮廷で日本の役人や軍人が行ったことは脅迫・威圧行為に他ならない。それでも戦勝国となった日本がある程度の承認を欧米各国から得られたのは、当時がまさに欧米の帝国主義国家が植民地収奪抗争の渦中にあったから。日本に利を与えることによって、自国の利に変えるという後進国・日本を利用する立場が働いていたからに他ならない。なので、日清戦勝では遼東半島の領土化が三国の干渉によって立ち消えになったのも、帝国主義抗争の利害衝突のためであって、日本の立場が全面的に支持されたわけではない。
 日露戦争にしても、ロシアの満州侵略に危機感を抱いた日本が自衛のために戦争を起こしたとされるが、当時の国力では満州の植民地経営をする余力はないにもかかわらず、藩閥と軍の意向で戦争を開始することになる。そのさいに、日本の国土を戦場にすることはなく、朝鮮と中国の土地で戦争を起こした。戦争当事国でない国の領土で戦争をするというのは前代未聞のできごとではないか。ことに朝鮮ではいちおう独立国である朝鮮の地を日本軍優先で使えるようにし、のちの韓国併合の下準備が進行する。戦争終結後も日本軍は撤収しないで、その地にとどまる。これらの戦争は自衛戦争とみるべきではなく、植民地争奪の帝国主義戦争とみなすべき。
 とはいえ、ふたつの帝国主義戦争に勝利したことで、日本は世界史に登場する。それは独立した一つの国民国家としてではなく(帝国主義国家に抑圧されている国では民族独立の雄とみなされることもあった)、欧米、ことに英米の利権確保のための先兵の役割を果たすものとして。なので、日露戦争後は満州経営にあたってはロシアと協力関係をもち、それがのちに日英同盟の解消になる理由となる(1917年のロシア革命で日露の協力体制は解消)。
 日本の植民地争奪は1912年の韓国併合で大きな成果を上げる。ただ、当時の朝鮮は自給自足で貨幣・商品経済の未成熟な狭い市場しかなかった(思い返せば、日本も50年前はそういう国だった)。そこで当時の所有の不明確な土地制度の「改革」によって、農民が土地を奪われる事態になる。それを日本人が正当な契約を結ばずに奪取するケース(詐欺、ゆすり、脅しなど)が多発した。そして主に米の供給地として利用する(それによる飢餓の発生もでた)。
 日露戦争のときからこの国では反戦運動がおきたが、この運動では朝鮮や満州に関心を示すことがなかった。主要な理由は、朝鮮や満州から来日した人がほとんどいないために、その国の実情を知ることが少なかったからだろう(日本の大学には中国人留学生が多数いたので、このころから中国の独立運動に賛同し支援する人やグループが生まれているのと好対照)。そうであっても、戦争の被害国に対する無関心はこの後も継続し、一方侮蔑や差別の感情が生まれるようになって、1923年の関東大震災でのジェノサイドにつながる。

 

2021/03/23 隅谷三喜男「日本の歴史22 大日本帝国の試練」(中公文庫)-2  に続く