odd_hatchの読書ノート

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今井清一「日本の歴史23 大正デモクラシー」(中公文庫)-2

2021/03/16 今井清一「日本の歴史23 大正デモクラシー」(中公文庫)-1 の続き

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 大正時代には、軍や官僚が植民地や軍隊駐屯地でさまざまな策謀をめぐらした。その名をみると、東京軍事裁判で起訴された軍人や政治家(吉田茂もいた)の名前が頻出する。彼らは佐官や尉官であり、課長などの現場にいるものだった。このとき20-30代だったはずで、大正時代の彼らの憲法や官僚制を無視した行動は処分されなかったために、彼らが出世したとき同じ方法を繰り返すことになった(彼らも日清戦争頃の少壮軍人や官僚の真似をしたのだろうが)。15年戦争の責任を考えるとき、1931年の勃発よりも前に遡って、この国の<システム>の問題を見なければならない。
 彼らが勝手にふるまえたのは、政・官・財の暗黙の了解を取り付けていたからである、もうひとつ要因になるのは、下からの大衆運動がおきたこと。日本の戦争は日進・日露・15年の3回と思われるのであるが、それらの戦争の間には頻繁に軍隊が派遣されていた。大きいのは1917年のシベリア出兵であるが、それ以外にも在留邦人の保護などを名目に頻繁に派兵している。その際には、下からの大衆運動があり、派兵を求める「民意」が作られていた。日露戦争前後にもそのような運動があったがたぶんに一過性であったのに対し、このころには組織的になっている。いわゆる「右翼」ができたのがこの時代。重要なのは「右翼」は社会主義運動や労働組合運動などの大衆運動に対する「カウンター」として起きた。なので、日本の右翼はもとから反社会主義(反共産主義)、排外主義、差別主義なのであった。それ以外の理念を持たない「反」「アンチ」の運動。
 その社会主義労働組合の運動は、この国の資本主義が大きくなり、とくに工場労働者が増えたことに起因する。低賃金、長時間労働、威嚇や暴力の蔓延、社会保障なしなどの工場経営があり、かつ短期間で定期的に恐慌が起きていたために、雇用が極めて不安定であった。そこからこれらの運動がおこる。
 一方、ブルジョア政党と都市のエリート層は普通選挙運動に注力する。議会に代表を送りこみたくとも、選挙権が制限されていて、それも資産を持つものに限定されていたために、代表を送りこめない。そこで選挙人の制限を緩くすることを目指す(それは政党の利害と一致していたが、社会主義運動や労働運動弾圧を目的にする治安維持法をスルーすることになった)。また同じ時期に農民運動もおこる。おもに小作料や土地の所有に関する争議。不況による税収の低下は農民からの収奪に向かい、それをおそれた地主が対抗し、政府は地主を支援した(その反映で国内の米が需要を賄いきれなくなったので、朝鮮から米を飢餓輸出させた)。このような大衆運動、政党運動が起きたので「大正デモクラシー」というのであるが、あいにくのことながらこの三つの運動、中産階級の普選運動、都市労働者の労働組合運動、農村の農民運動が合同して、一つのイシューにあたるまでにはいたらなかった。関与した指導者の問題やメディアの情報拡散不足などを指摘することでもできよう。
 重要なのは、このような大衆運動を政府と軍が嫌悪し、弾圧を加えたこと。それは、明治維新で下層武士階級が幕府にとってかわったわけだが、その際に国家の利権を少数グループで分け合って、工業化を急速に進め、軍事力で「維新」を海外輸出するというヴィジョンを共有するシステムを作った。グループの規模が小さいときは、出自に関係なく能力ある個人を抜擢するようにしていたが、世代が数回入れ替わる間に個人を抜擢する制度は極力狭くし、グループ構成員を情実で指名するやり方になっていった(その選択にはグループ内の合議と合意が必須であったので、「民主主義」はあった)。しかし、グループ以外のものには利権は渡さず、弾圧する。そのような<システム>が完成したのが大正時代。まだこの時代は政党や政府は大衆運動を恐怖に思っていたが、治安維持法の施行で恐怖はなくなる。そして昭和のファシズムに移行する。

 

  

 

<参考エントリー>

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