odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

井上幸治「秩父事件」(中公新書)

 日本史を勉強していて困惑するのは、市民蜂起がほとんど現れないこと。なるほど日露戦争の停戦協定後の暴動や米騒動、1970年の国際反戦デーなどが散見されるが、これらは一時的な騒乱で組織もリーダーもない。警察や軍隊が出動するとすぐに収まった。そうすると、1884年明治17年)の秩父事件はまれな組織的な武装蜂起事件であった。さらにリーダーたちのなかには自由民権運動のメンバーも入っていて、主張にわずかながら民主化要求があったとなると、輝きをますのである。とはいえ、この事件を説明する本がめったになく、たまたまみつけた1968年という激動の年に出版されたものを読む。このとき、自由民権運動の再評価があったし、民主化運動にかかわる人たちも維新100年目ということで明治のできごとに興味をもっていたのだった。本来なら、マルクス「ルイ・ボナパルトブリュメール十八日」、エンゲルスドイツ農民戦争」のような歴史書を書かねばならない事件なのだよ。

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 周囲を深い山林に囲まれた秩父は米には適さないところ。19世紀になって養蚕が入り、横浜の開港後生糸や絹糸が重要な輸出品となり、ここ秩父も生糸生産や絹織物生産で栄えたのである。とはいえ弱小企業や家内工業の小資本の経営は危なっかしく、景気の波に左右された。明治13-14年は豊作の都市であったが(利益を祭りや芸能に使うというのは日本の経営の特徴)、翌年から不作。松方緊縮財政のために金回りが悪くなり、デフレのために秩父の農産業は壊滅的な打撃を受けた。一方で税の取立ては厳しく、零細農業や小作人は高利貸しに借金しなければならない。年が明けても不作でデフレは収まらず、秩父の農民は困窮しきったのである。
 そこで、借金帳消し、減税等を求める貧困農家による困民党がつくられ、秩父いったいに支持者を増やす。一方、中~大農家の学のある若者は自由党の党員になり、国会開設・普通選挙などを求める自由民権運動を開始。おりからの窮状をみて困民党にオルグを開始。さらにこの一帯を行き来する博徒・侠客なども反政府でもって彼らの蜂起準備にかかわりだす。当初は穏健な合法活動であったのが、次第に武装蜂起とテロに向かう。警察や役所の悪対応が彼らの憤激を買い、決起するしかないと追い詰められたのであろう。
 蜂起は1884年11月1日。秩父一帯の高利貸し、役場、交番などを襲撃し、一時は警察を追い出してしまう。指導部は30-40人。最大1万人が参加したというからすごい。当時の日本の人口は6-8000万であったのだし。そのうえ維新と戊辰戦争から17年、西南の役から7年となると、刀を持ち出しての切りあいがあり、敵の首をさらすなどもごく当たり前にあったのだ(それらがなくなるのは、自由民権運動秩父事件などの蜂起に大弾圧をおこなったためだろう)。
 あいにく憲兵出動命令が下ったことを知った蜂起3日目に指導者・幹部が怖気づいて翌日一斉に逃亡し、組織は瓦解する。残党は群馬から長野に転戦したが、10日目に降伏する。ここで一般住民による武装蜂起、騒乱は終了する。あとは過酷な尋問、拷問と裁判があり、罰金の支払いに苦慮することになる。(ここらの事情は警察の調書に主によっている。治安維持の司法と行政文書が民衆運動の一級の資料になるのだ。蜂起したものは口をつぐみ、記録を残さないからこうなる)。
 西南の役自由民権運動を通じて、権力の暴力装置は完成。この後の大日本帝国憲法制定で、日本の統治システムは全国を覆うようになり、自発的服従をするよう国民の意識改革も進む。それはこの事件の後の話なのだが、十分に権力を怯えさせることになっただろう。
 蜂起の準備では、参加者を増やすオルグと結束を高めるための連携に主眼が置かれる。決起の瞬間までは緻密に検討するが、その後どうするかがない。初日の成功の後、右往左往してしまう。これは日本で蜂起しようとするグループに共通。226も主要施設の制圧の後、動きが悪くなったし。そこらへんはヨーロッパの「革命」では蜂起の先をつくることができた。失敗をかさねた経験の差かしら。それは個々の戦闘でもそうで、人数の少ない蜂起軍が警察や憲兵を翻弄する作戦を立てられない。ゲリラ活動も行われない。民衆の側も自衛戦闘の経験と知恵がないのだ。(井上ひさし吉里吉里人」、大江健三郎同時代ゲーム」などのイマジナリーな日本人しかもっていない)。なんとも残念だなあ。
 そんなよしなしごとを先人の活動に思ってしまった。