odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第三章 屋根裏部屋」-2

2021/07/01 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第三章 屋根裏部屋」-1 1948年の続き 

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 黒川建吉は図書館の屋根裏部屋に寄宿してからしばらくは講義に出ていたが、それをやめると誰にも会わない。一時期は社会運動の連中が会合場所にしていたが、それもなくなると出入りはない。数少ない訪問者は与志と矢場。沈鬱で陰気な与志の断片的な語りは、黒川をして苦しい思考だという。だが、与志の考えは黒川と矢場に影響を与え、同じように存在と宇宙を考える。この章では、黒川が自分の考えと与志の考えていることを説明するが、どれがどちらの考えかというのは明示されていないので、ごっちゃにしてまとめてみよう。
 この時代を「鉄の時代」と総括するように、彼らは「私たちの歴史は逸脱の歴史(P332)」であるという。逸脱したの精神であり(彼らは肉体よりも精神を重要と考える)、亡霊のごときものであるとする。人間の目的が時間と空間の征服であるので、この逸脱は必然。それでも逸脱の歴史を迷妄の歴史として全的に拒否する転回をもとめる少数の逸脱者がいる。「吾あり」の自覚に徹してそれを持ちえなかった最初の自殺者がそれであるだとう。彼は人間を基準とする目的(時間と空間の征服)を持たないので、存在が存在たりえなくなった無限の果ての地点にいて、人間を超克している。そのときには宇宙もまた死滅している。そこに至るには、「吾あり」「吾は吾なり」をいいたくてもいえないような不快を持っているゆえに、不快の由来である「虚体」にあることによって人間を超えるのである。そこでは全否定の賛歌が聞こえ、精神が勝利するのだ、そうだ。
 こういう事態は死滅した眼、未来の眼でみることになる。与志が現世の出来事に関心を持たず、超越的な視点の物言いをするのは、自身をそのような眼にする試みなのであろう。なるほど、ここからは個々人の生活や労働に目を向けないのもやむをえまい。何しろ自身の結婚にすら毛ほどの興味をもたないのだから。
 ここにまとめたことは、のちの第七章「最後の審判」でもう一度、詳しく見ることになる。黒川の抽象的なまとめは、矢場の寓話に引き継がれて「死滅する宇宙」や「宇宙の果て」として再び語られるであろう(その間に作者の物理現実では40年近い年月がながれた)。
 さて、このような黒川の語りに茶々を入れるのが首猛夫(「瘋癲病院」で初めて与志とあった首猛夫は、黒川、矢場など与志に影響された人々に「虚体」の考えを聞くインタビューアーの役目をもっている)。

「いま君の眼の前に、既に点火されたダイナマイトとでもいったものが置かれていて、その導火線が白い煙を奔しらせながらしゅっしゅっと音をたてて燃え進んでゆく――ふむ、そうだとして……そうした瞬間にも、君はあらゆる可能性を見据える死滅した眼で、それをじ-つと眺めつづけておれるのだろうかしら?(P355-356)」

とさりげなくゆっくりと黒川を挑発するのである。のちに黒川は首がなにかたくらんでいるのではないかといぶかしみ、与志にいたっては首の表情をみただけで「貴方は何を策らんでいるのです?」と尋ねる。「死滅した眼」で眺めるとき、目前の肉体消滅の可能性に対しても動じないでいられるか、肉体よりも精神を賛美する決意は自死の可能性の前でもくじけないでいられるか。精神は肉体に勝利できるか。黒川の思想を地上に降ろし、自身のことにしたときに、実現できるのかと問う。黒川は当然のことながら、この問いかけに反論せず、考え抜いた先にある決断に至るであろう。それが首のたくらみであろうし、のちに黒川が登場するときに、あるものとなって現れる。
(この問いかけは、首猛夫の体験のさかさまになるわけだ。黒川に問うたのは異なり、首が考えたのは、他者による肉体加害、損壊に対して精神の勝利を目指すものはどのようにするのか。生き延びた肉体をどう始末するのか。他人と肉体を嫌悪する精神は自身の肉体をどうするのか。)

     

    

 

2021/06/28 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第四章 霧のなかで」-1 1948年に続く