odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-1

2021/05/31 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-3 1984年の続き

 

第八章 《月光のなかで》(第2日夜)

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 第6章の終わりで集まったもののうち、そのあとの行動は首だけが第七章で語られた。第八章ではほかの人たちが語られる。すなわち、与志と岸博士は印刷小屋を家探しし、目当てが見つからなかったので、足早に立ち去った。津田夫人は与志を詰問しようと後を追いかける。残ったのは安寿子と黒川と神様。印刷小屋の李の仕事を眺めるうち、「さかさま」の活字と組み版が意味を持つという説明に興味を持って、組版することを申し入れる。彼女の生まれて初めての仕事。李は仕事の成果を後でみせようという。
 安寿子はなぜ与志はああなのかと独り言つと、三輪家のものは自己存在の罠を突き破って無限大によらわれていて、頭蓋のなかの暗黒の無限大へ向かって歩き続けていると黒川はいう。無限大への踏み出しが可能になるのが「虚体」である(第一章以来ようやくこのことばがでてきた)。宇宙はじめての創出をもたらすものが「虚体」。地上最後の人間が太陽の最後の残照をみながら「人類滅亡を厳粛に告示、記念、惜別する最後の言葉」を発する。発するのは与志であれば

「さて、いたましき言葉を告げむ、われよ。存在によって存在せしめられるわれ、ならざる虚在のわれ、とならずしては、ついにすべてのすべてのわれ自らをわれ自らによって超出するわれたり得ざるなり。(P258)」

となる。
 俺からすると、時間や空間の制約されていて、ことに肉体によって裏ぎ続けられる精神を救うために、精神自体が時間や空間を超えでる超越者になろうとする試みに見える。通常は、超越するための踏み台になるのは超越者と合一することにあるが、ここではそのような他者を助けにしないで、あくまで「吾」の否定や消滅によって超越しようとする。「死者の電話台」「自己が自分自身と自己格闘する戦士の兜」の奇態な機械を使用するのはそこにおいて。
 黒川建吉は屋根裏部屋で日夜(という時間がないようにしているが)考えている「無限大への道」という寓話を語る。ギリシャの哲人に似た老人二人が道を歩きながら行う問答。重要なところは、虚体の観念を二人が持っていて、虚体とは無限大変幻を絶えず呼び出す創造的虚在であり、宇宙の全宇宙(第七章「最後の審判」で「無出現の思索者」が幾多の宇宙を創造したのを思い返しなせえ)の唯一の基本原理であるとする。というのも、存在は数字1であるが、虚在ないし虚体は無限大であって、自らは満たされていないので、創造的な変幻をおこなう。
(冒頭の李の仕事にあてはめれば、白い紙は無であるがゆえに、活字を印刷することによって、意味を生成する。白紙が虚在や虚体にあてはまり、印刷された活字(とその組み合わせによる情報)が存在にあたる。という具合か。)
 当然のことながら、無限大変幻を呼び出す創造的虚在=虚体は「吾」を内包していないのであって、存在に縛られる「吾」が「吾ならざる吾」に解消・還元されたとなると、「吾なる吾」を構成している意識なり記憶なり発話能力なりは引き継がれないし、残らない。
 黒川は前の「無限大の道」の話を、安寿子をいたわり、鼓舞し、慰めるかのように語り終える。安寿子は意味をとれない。読者からすると、与志の「吾ならざる吾」の探求は自身を虚体に返還・還元することにつながるという予感が生まれていて、彼の覚悟はいずれ実行されるであろうと恐れる。それに安寿子もついていくのではないかとも思うのだ。
(「死霊」のなかでは男女の役割は明確に区分されていて、思索するものは登場人物においても寓話の中でも常に男。女は男の思索についていけないか(津田夫人)、男から教えを受ける相手(安寿子)。しかし女は直感や憑依の能力があって(「神様」や「ねんね」)、男より先に思索の核心を言い当てられる。というのも、女は生殖から逃れられないし、生活に深く関与しているため。こういう古いジェンダー感が残っている。21世紀に読むにはきつい。)

 

    

 

2021/05/27 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-2 1986年に続く