odd_hatchの読書ノート

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堂目卓生「アダム・スミス」(中公新書)-1

 アダム・スミスは1727-90の生涯で、「道徳感情論」と「国富論」だけを出版し、繰り返し改定した。通常は「国富論」の「神の見えざる手」にばかり注目するが、彼の自由市場は放任ではなく、市場の参加者が一般的諸規則を守り正義を実現する「同感(エンパシー)」の場であった。この経済思想はたとえばケインズにも引き継がれたと思うが、さすがと分厚い原著を読み通すほどの根気と熱意はない。そこでこの新書で概要を知ることにする。
 他に、佐伯啓思「アダム・スミスの誤算」(PHP新書)も参考になりそう。本書はスミスが書いたものを詳しく読もうという趣旨で書かれているので、スミスの生きた18世紀イギリスないしヨーロッパの情報は乏しいので、これで補完することは重要だ。
(クラオタからすると、ヨーゼフ・ハイドンが1732-1809。カントが1724-1804。こういう人がスミスの同時代人。)

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 まずは「道徳感情論」(1759-90)から。人間は社会秩序を維持するように行動するがどのような本性に由来するか。そうすると、人間には他人に関心をもって観察し、その言動に同感(エンパシー)が起こり、感謝や憤慨などの感情が生まれる。それを繰り返すと、人間に「利害関心のない公平な観察者」が生まれる。同時に、自分の行為や発言が他人にどうみられるかを想像するようになり、自分の中の公平な観察者の判断と一致するかどうかを反省するようになる。これらの経験の積み重ねで一般的な諸規則(正義と慈愛)が作られ、判断や行動の根拠になり、利己心や自己愛を統御するようになる。で、正義の感情は社会的なルールをつくるようになり、厳密・強制力・制度化である法を作る。
(正義は他人の生命・身体・財産を傷つける行為を行わないこと、法で厳密化する。慈愛は他人の利益を増進する行動を行うことで、強制力はない。このあたりの議論は20世紀後半の哲学・心理学・社会学と共通しているように思える。一方、内なる「公正な観察者」を道徳の規範にするのは、神がいない形而上学であるとも見える → と思ったが、本書ののちの記述で「社会の外部から超越的に与えられるものではなく、社会を構成する諸個人の交際の歴史を通じて、内生的に形成される」P109-110と解説されていた。)
 このような「公正な観察者」を持つ人間は平静(健康、無負債、良心にやましい所がない)を求める。それを実現するには最低水準の富が必要なので、スミスは社会的な野心を肯定する。しかし富・財産への道は不正・情実その他の悪徳の誘惑があり、同時に英知と徳への道もなければならな。正義感に統御される野心のみが認められる。同時に富への道では競争はフェアでなければならない。このような経済の発展によって最低水準の富がすべての人々に行き渡る。重要な指摘は、正義は他人の生命・身体・財産を傷つける行為を行わないこと。正義は、慣習や流行に大きな影響を受けない。特定の性格や行為は評価基準が変わることがあるが、一般的な性格や行為の評価基準は慣習や流行で歪められることはない。
(最後のトリクルダウンは実際に行われたことがないなど批判はいろいろできる。時代の差を考慮。この章が非現実的に見えるのは、資本主義社会では徳への道はつねに排斥され、愚弄・罵倒されて実行することは困難だった。それでも英米の資本主義の成功者はチャリティを行うのに躊躇がなかったが、日本の成功者はそうしない。資本主義のシステムは導入しても、思想は入らなかったし、それ以前から人々の「最低水準の富」を実現しようとする思想も政策もなかった。スミスの考えがお伽話に読めてしまうほど、この国はいろいろ貧しい。)
 このような「公正な観察者」は国家にもできる。他国の行動に対しても正義と慈愛に基づく判断ができるはずである。しかし国家がそれを実行するのは難しい(イギリスとフランスは過去数百年にわたって抗争と戦争を繰り返してきた)。スミスは国民的偏見が「公正な観察者」の正義を妨げるという。この愛国主義批判が秀逸。利己心や自己愛と同様に、祖国への愛が国民に生まれるのは自然。でも、祖国への愛は普遍的仁愛からではなく、私的な愛着から導びかれ、実体のない者への仮想的愛着なのだ。で国家のために犠牲になること/誰かを犠牲にすることを是認することはない。国家のために個人が犠牲になることを是認するのは不自然で倒錯した偏愛である。祖国への愛は近隣諸国の繁栄と勢力拡大を悪意を持った嫉妬と羨望で見ることになる。いつも恐怖と猜疑にあるから、近隣諸国からの正義を期待できないので、自分が受けるのと同じだけの正義で隣人たちを取り扱おうとする。そうすると、隣国の繁栄と勢力拡大を自国が征服されることと想像する。祖国への愛から近隣諸国に対する国民的偏見を生み、近隣諸国に対する嫉妬・猜疑・憎悪を増幅させる。その結果、自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。祖国への愛が国家それ自体で価値を持つと思われるようになると、人は自国が隣国よりもあらゆる点で優れていることを望む。すなわち隣国が時刻よりもあらゆる点で劣っていることを望み、信じる。これが国民的偏見である。
 本書では、祖国への愛が愛する人々の幸福を与えるものとしての国への愛は、国それ自体が価値を持つと思うように転化する理由を説明していない。そこは置いておくとして、まだレイシズム概念のない18世紀の文章なのに、まるで今の愛国者を分析しているような現実性を持っている。
 実際には国家間で道徳的腐敗(正義や慈愛を実行しない)が起こるが、それは「公平な観察者」が当事国の視野の外にいるため。なので「公正な観察者」に当たる機関が必要。同時に、政府は根拠のない祖国への愛でもって国民を誤り導いてはならないし、国民も根拠のない祖国への愛で政府を扇動してはならない。交際を深め同感しあうことを慣習化して、国際問題の解決における道徳的腐敗を免れなばならない。
なんと、250年前の18世紀に、この国の外交問題の解決指針がすでにできていたではないか。アダム・スミスの慧眼(逆に言うと、当時の英仏対立は互いの「祖国への愛」「国民的偏見」のために解決困難だったのだ)。
 以上が「道徳感情論」のまとめの大意。読み応えがあったのは正義論と愛国主義批判と外交問題。個人間の交通から生まれる「公正な観察者」を順次拡張することで、ここまでの広がりを持たせることができることに驚愕。これらは21世紀のこの国の混迷を解決する指針になっていてとても重要だった。とくにスミスは正義を観念として扱うのではなく、具体的な行為や感情とみなすところが重要。

 

2021/12/14 堂目卓生「アダム・スミス」(中公新書)-2 2008年に続く