odd_hatchの読書ノート

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佐伯啓思「アダム・スミスの誤算」(PHP新書)

 アダム・スミスの読み直しとそれによる経済のグローバル化の批判。スミスの生きた時代が漱石「文芸評論」の時代であること、そして「産業革命」の時代であること(下記のように実際は別の経済革命が重要だった)。そのころから300年もたつと、どうもわれわれの歴史を見る目は曇る(というか読者の生きている時代を歴史の時代に当てはめて考えてしまう)。なので、この本ではスミスの書いた文章よりも、彼の生きた時代の描写に注目しておきたい。

序章「誤解されたアダム・スミス」 ・・・ 資本主義と市場経済は16世紀ころの発生直後から「グローバル化」があった。グローバルエコノミーは2回の危機を経験している。18世紀と20世紀の前半。実際に不況があって、社会の混乱になった。そのとき、「グローバル・エコノミー」を批判する経済学を構想したのがアダム・スミスケインズ。上巻ではアダム・スミスを読み直す。このとき覚えておくのは、スミスの生きた18世紀は1)産業革命、2)戦争の時代であったこと。
第1章「市場における「自然」」 ・・・ スミスの「市場」を理解するためには、18世紀の思想や精神を把握しなければならない。17世紀までは世界は神の意思で統一されたものであって、人間の存在の意味は小さかった。しかし18世紀になると「罪深い人間」という見方がなくなり、世界にここに関与する可能性を持つ存在であるとみなすようになった。罪深く卑小な人間から善で楽天的な存在へ。その背景には物理学と天文学の成果もあるはず(神なしで惑星の運行から物の移動までを統一記述できる法則を発見したから)。でも人間には存在を高貴なものにする性質があり、それは理性ではなく情念であるとする。でもって、その情念は他者に対して反応するのであって、道徳が他者との関係において形成される。面白いのはスミスの道徳論であって、ある行為が適切なものであるかどうかを判断するためには、1)想像上で相手の立場に身を置くことで、自分の行為によって反応することを「同感(シンパシー)」する、2)そして、利害関心を持たない第三者の立場で自分と相手の行為を評価する、その手続きで自分の行為の適宜性(プロプライエティ)が判断される。迂遠な説明に見えるが、情念をしかっり育てることで可能になるのだという。さらに興味深いのはスミス他のイギリスの哲学者は主体とかアイデンティティがあるとはみなさない。そのような主体が存在しないから、人は道徳にコミットせざるを得ない、というのがスミスの考え。ここには、最近流行の正義論に共通する視点があるように思うがいかが。
第2章「道徳の基盤」 ・・・ 17世紀のイギリスは、1)劇場がたくさんあり演劇が盛んに行われ劇評ジャーナリズムが生まれた、2)商人および生産資本が大きくなりブルジョアが生まれ、貴族が没落。で、道徳は「中立的な観察者」によって判断されるが、これは抽象的な存在ではなく、大衆に紛れた匿名の誰かである。最初は、上流階級の「ジェントリー」がそれを具現化する存在と思えたが、成金の誕生によりこの種の「ジェントリ」は消える。となると、「中立的な観察者」を成り立たせるものは、「神の見えざる目」を感じて、世間の賞賛や虚栄とは無縁に「称賛に値すること」を求める内面にある。それは自己規制(セルフ・コマンド)を持つことで達成されるが、理性や感性のようにアプリオリに所有しているのではなく、教育や鍛錬によって獲得するのである。
第3章「富の変質」 ・・・ ここでは18世紀のイギリス経済史の見直し。すなわちこの時代は技術発展による生産力向上よりも新大陸とアジアを結ぶ三角貿易によって富を蓄積する貿易による利益が増えていた。決済は金と銀で行われていたから、これらの財貨を貯めることが「国富」であるとみなされた。なので、保護貿易政策と軍事的な覇権でもって国富が増えるのである。漱石「文芸評論」に描かれたロンドンの紳士の快楽や政治活動もこの景気に支えられていた。同時に、金融資本が増え、国債や株式を売買する市場ができ、金融バブルも起きていた。すなわち金融資本によるグローバル経済体制がこの時代にあった。貨幣は金銀の算出量で市場の流通が決まり、交換されないと価値を見いだせないものであるから、貨幣は実体や基盤をもたない(国家の信用だけが貨幣の価値を支える)。スミスの批判したのはこのような浮遊する貨幣を富とみなす重商主義であった。この時代の経済史は面白いなあ。
第4章「徳の衰退」 ・・・ ここの要約は困難。名誉革命(1688-1689年)とそのころの商業革命によって、財産が意味が変わり(土地である不動産から貨幣や金融資産などの動産へ)、財産と関係した徳の観念も変わった。すなわち、土地が財産であるときには、財産の所有者は土地を保護するために、土地に関係する者たちに「徳」を見せ、財産を保持することを承認されなければならなかった。それがジェントリー。しかし、浮遊する動産が財産になったとき、守るべき変わらざるものはなくなり、徳の代わりに「作法(マナー)」が重要になった。まあ、資産である土地を持つ紳士よりも、見てくれのよい詐欺師かもしれないスマートな有名人のほうが名誉と思われるようになった。で、スミスは、前者の「徳」を重視する。だから、「土地と結びついた労働」こそが価値を生み、徳の源泉となる。しかし、当時のグローバル経済(重商主義と金融資本)は労働の代わりに浮遊する貨幣を売買することで「信用」を過大に評価させ金融バブルを作っていた。その批判となるのが、スミスの道徳論と経済学。なので、彼の支持する自由市場経済では、徳を持つジェントリーな人々が計算可能で信頼可能な範囲の売買行為を行うのである。そこにおいてようやく「神の見えざる手」の自由調節機能が働く。投機目的の売買や金融資産の取引だけの浮遊する実体のない取引を行うものは登場するべきではない、とされる。ここらへんにくると、大分通常のアダム・スミス観とは異なるところに来ている。
第5章「経済と国家」 ・・・ 土地とそれに結び付いた労働が価値を生産するのだ、とスミスは考える。土地と結びついた人間のありかたが「自然」であるのだから。なので、「自然」な人は土地に投資をする。それがもっとも確実な利益を生むのであるから。なので、商業資本にしろ生産資本にしろ投資は国内産業に対して向けられなければならない。そのような「自然」な人々が国内投資を行い、土地の改良による生産性向上に向けられるとき、市場は「見えざる手」によって「自然」な状態を生み出すだろう。国内の経済から生じる富が国富(ナショナル・ウェルス)を増すことになる。そのような見方をするとき、重商主義と称される当時の経済政策および主要な登場人物たちは、利益を国内に向けず、浮遊する貨幣や金融資産に向けている(そのとき、海外貿易や国外の金融資産、貨幣取引に注目するので彼は今のグローバル経済の推進者の主張と似てくる)。ここに描かれたスミスは、市場の調節機能を万能には思っていないし、自由主義経済とグローバル経済の推進者ではない。むしろ国民経済を重視する。さらに重要なことはスミスの経済学は、抽象的な市場人や供給者に基づくのではなく、「自然」なあり方を体得し、「徳」を実践し、国土の防衛に責任を持つジェントリーを想定して構想されている。経済学と道徳は等価なのである。


 このような解釈の変更はとても面白い。単純にいうと、市場の調節機能に任せるレッセ・フェールと小さな政府を主張するスミスが、そうではないよ、経済のグローバル化、金融資本の拡大に警鐘を鳴らす国民経済の主張者であり、むしろ国民経済を重視していて、道徳や倫理も経済人は自覚していなければならないという主張をしていたというわけだ。この見直しがどれほど学者の共通見解であるのかは知らない。そのところに素人は首を突っ込まない。それにスミスを「継承」したリカード他の古典派経済学を支持するわけでもないし。
 個人的には、リバタリアニズムにはなかなか賛同しがたいし、「小さな政府」にも違和感を感じている。その考えを裏付けになるのかな。この後、下巻では、ケインズの話になるので、そちらにも期待。
 一般的な経済学だと、投資先は国内であろうと国外であろうと、価値を生み出せば差異はないよ、というのだけど(小野善康「景気と経済政策」(岩波新書)など)、個人的には投資先は国内であるほうがよいなあ。というのも、国内の投資であれば、1)その価値は税収増になり、再配分されて、国土に住んでいる人の利益になる、2)国土の景観や環境の保全に役立つ、3)国内の投資先であれば、経済活動とは別の人間行動が直接・間接に期待できるし、「自然」にやりたいと思うようになる(まあ、端的には自然災害にあったときに助け合いましょう、貧困や病苦の人へのボランティアがあるとか)、から。少額の寄付をときにやっているけど、ほとんどが国内に向けられているのは、こんな考えがあるので。

  
  

2013/05/17 佐伯啓思「ケインズの予言」(PHP新書)