odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-V 他人といることで孤独がいや増す文体と観察を持った小説、

2023/10/30 ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-III、IV 自我に目覚め宗教的ナショナリズムにかわるアイデンティティを模索する。 1914年の続き


 他人との距離の取り方、他人の描き方が独特。小説に初登場のキャラがでてくると、彼の名前・所属・経歴などいっさい説明しない。どういう外見なのかも記録しない。いきなり学生らしい気軽な口調で話しを交わす。小説の約束事を破っている。でも、われわれ読者の「リアル」はそういうものだ。いきなり出会い、他人を深く知ることもなく、詮索する気持ちもないのに、いっしょに会話し行動し、時に触れ合う。この「リアル」をジョイスは描いている。
(そのために、読者は<他人>がでてくると「こいつ、だれ?」ととまどうし、のちに「ナントカの人」と書かれていたのが誰のことなのかわからず(そのとき詳細な脚注が参考になる。同じ戸惑いを感じる人は多かったのだね)、著名人と市井の人の区別がつかないので時代や社会とのかかわりがわからない。同時代の人なら説明不要で分かったことが100年もたつと何がなんやらとなってしまう。)
 一方、不思議なことに、かなり突っ込んだところまで議論や告白をするのに、語り手から見た<他人>がどういう感情や意図を持っているかという推測やみて取りが書かれない。語り手は他人との関係に安住している感じはなく、つねにコミュニケーションが断たれるかもしれないという可能性を感じながら相手と接しているみたい。こういう他人との関係の取り方は、自分にもあるのでこの記述のしかたは「リアル」に感じるけど、とても寒々しいし、そのうえ他人といることで孤独がいや増す感じもする。
 こういう文体と観察を持った小説はほかにあるのかしら(いや出あったことはない。とりあえず近そうなのは森敦「意味の変容」か。それも違う)。

V.ディーダラス18から20歳
 大学に進学して、勉学にいそしむ。でも、なるほどアリストテレスやアクィナスを読み縦横無尽に引用しながら芸術を語りながら(いやそれ自体はすごいんだけど)、なんか芸術の語り方が上滑りにみえるんだよな。とはいえ、その博識は同じ大学に通うものと共通の話題になり、神学校のギムナジウム時代とは異なる対等な友人関係もできた。イギリス統治下のアイルランドで、カソリックの学校を経由して普通大学に通うことは、社会や国家との関係で自分の立場を決めることを要求される。学友には社会主義者もいるし、民族主義者(愛国主義者がふさわしい)もいるし、彼らから「目覚めよ」「起きろ」という要求がでてくるし、英国から派遣された学監や教師たちがディーダラスのアイルランド語を揶揄するものいらだたしい。アイルランド語の話者がシェイクスピアを学ぶこともしっくりこない。芸術論を考えたり、詩作をするも、まだ目は出ない。
 そこで考えるのは、「僕は何に対しても仕えない」ということ。これが含意するのは、神を愛そうをしたがしくじったらしい「教会」に対してであり、母からの愛も母への愛も受け入れられない「家庭」に対してであり、禁欲や宗教などの道徳を押し付けてくる「祖国」に対して。こうして「教会」「家庭」「祖国」のいずれにも仕えることをしない。では何をするかというと、自分の精神を拘束されることなく自由に表現できる生活と芸術の様式を発見するのだ。実際に彼はダブリンを離れて暮らすことを決める。
 自分も進学する大学を選ぶ際、家から通うのではなく寮かアパートで暮らすしかない遠方のものにした。ふり返って思えば、それはディーダラスと同じように「家庭」「祖国」から離れて、拘束されない自由を得たい欲望であった。ディーダラスと違うのは進学先の専攻が自分の精神を自由に表現できる場所なのではなく、便宜的で一時的なものであったということだ(なのでその後の就職で苦労する、いや平成以降の若者ほどの苦労はしていないが)。なので、この章のディーダラスの表面では怠惰でのんきで冗談ばかりの学生生活の裏とか陰で起きている葛藤はよくわかるし共感する。前の章の感想を引き継ぐが、このような「拘束からの離脱」「孤独を選び取るための自立」をしっかり描いた小説は、ちょっとおもいあたらない。たぶんない。
 ディーダラスは「教会」「家庭」「祖国」に仕えないことを決めるが、似たことを同時代の革命家もいっていた。レーニン「国家と革命」1916年。共同体からも国家からも離脱することは革命家の条件であるのだ。レーニンの「革命家」は政治革命を志向したが、ジョイスの革命は「文化革命」を目指すものだろう。母語であるアイルランド語が差別され、変わりの英語は似てはいるが外国語として学び直すものである。どの言葉をどのように使うのか。どのような新しい表現が可能か。そういう言語の革命がジョイスの向かうものであったのだろう。
 この「文化革命」は私的なことであっても、「教会」「家庭」「祖国」に仕えないことを決めた単独者が表現の自由を行使すると、仕えないことに決めたはずの「教会」「家庭」「祖国」から強力な反発を受ける。私的な決断であっても、神を愛することにしくじったことを正直に書けば「教会」は異端や無神論といいたてるだろうし、実際にしでかしたこと(淫行、覗き見)を書けば「家庭」はふしだらであるといい、複数の言語を操り新しい語彙を創造してしまえば「国家」や愛国者たちは言語をおろそかにしていると弾劾するのだ。実際にこの「若い芸術家の肖像」はいくつかの語彙や表現が問題になって発売が困難になった。
(唐突であるが、小説が書かれたWW1直前も、クラシック音楽ではどのように歌唱するか、どのように旋律をつくるかで、小さい革命があった。そこでは発声しやすいように歌うように歌唱や旋律を作るのではなく、いかに「普通」から離脱するかという方向でさまざまな実験が行われた。ジョイスの言語実験も、音楽の実験と並行関係にあると思う。)

 

 この心意気やよし、と若僧に喝采を送りたいのであるが、人生の老境に入った俺から顧みると、不安が残る。課題設定がおおきすぎないかというのは凡庸な俺からみたひがみであるので無視すればいいのだが、ディーダラスは「教会」「家庭」「祖国」のどれにも仕えない(「何にも仕えない」は悪魔の言葉だそう)のはそのどれからも庇護を受けないことであって、孤独に単独で生きることになる。社会保障などはおいておくとして、彼はメンターもライバルも不在なままだ。独学は陰謀論独我論、怠惰の暗黒面に堕しやすい。それを回避することは可能であるか。
 おせっかいをもう一つ言うと、男が何ごとにも拘束されない自由を行使するとき、食事や洗濯、清掃、買い出しなどの家事をおろそかにする。それは誰かが勤勉に代行しなければならない。シャドウワークをマイノリティに押し付けることによって、マジョリティの自由は行使される。ラストシーンでディーダラスの買った古着を母が縫い直していることが書かれる。ディーダラスは仕事や家事を押し付けていることに気づいていない。こういう不平等、不公正には注意深くならないといけない。まあ、本書は1904-14年に書かれているので、時代の制約はあるのだがね。

 

 

2023/10/02 ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(岩波文庫)-I、II スティーブンは優等生で、作文がうまいが、コミュニケーションはうまくいってなさそう。 1914年に続く