odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-1

 黒岩涙香が1891-92年にかけて「都新聞」に連載した(いや単行本化したときに1回分脱落したとのこと。旺文社文庫版(全129回)は脱落した版とのこと)。このとき涙香31歳。契約の多い月初めからの連載なのは、いかに涙香が原作にほれ込んだかの証。もとはフォルチュネ・デュ・ボアゴベイ(1821年9月11日 - 1891年2月26日)の「La vieillesse de Monsieur Lecoq(ルコック氏の晩年)」1878年ルコック探偵はガボリオの創造した探偵であるが、1873年に早世したガボリオを惜しんで、キャラクターを借りて創作した。ガボリオの「ルコック探偵」は1869年初出だが、事件は1840年代と推定。そのころ若手だったルコックが、1878年には老年でできの悪い息子の心配ばかりしているのは時間のつじつまが合う。別の作家が創ったキャラクターを借用するパスティーシュは近代でも早い時期からあったのだなあ(著作権や作家のオリジナリティ概念のない近世以前ではあたりまえに行われていたテクニック)。
(昭和の涙香に関する解説では、翻案の原作を探すのは容易ではないとされていた。いまでは、上のタイトルでネット検索すると、オークションにでていたり、古書店が販売リストにいれていたりするのをすぐにみつけることができる。「La vieillesse de Monsieur Lecoq」も、2020年4月時点で200-300ドルないしユーロで購入可能。)
(いや、googlebooksが1885年出版の英訳版をPDFにして、無料ダウンロードできるようにしていた。)

books.google.co.jp


 のちに、「死美人」にほれ込んだ吉川英治は時代と場所を江戸に変えて、「牢獄の花嫁」1931年を書いた。いくつかの文庫もあるが、青空文庫に収録されている。

www.aozora.gr.jp

odd-hatch.hatenablog.jp


 さらに因縁は続き、涙香の翻案にほれ込んだ乱歩は、地が文語で会話が言文一致体で書かれた翻案は読みずらいと懸念したのか、あらたにリライトして昭和31年1956年に世に出した(ただし、氷川瓏が代作)。2018年に乱歩版が河出書房で出版された。
 涙香のは1980年にでた旺文社文庫版が最後。青空文庫になく、国立図書館コレクションのKINDLE版もなく、入手はきわめて困難とみえる。

 なお、1969年に「小学館少年少女世界の文学28 日本編3」でジュブナイル版がでたことがある。詳細はこちらのブログで。

diletanto.hateblo.jp


 実はこのジュブナイル版を、俺は小学生の時に読んでいた。いくつかの場面は記憶に残り、この再読の最中、なんどか記憶がよみがえった。


 21世紀によむにはのんびりしすぎで、ご都合主義の目につくストーリーではあるが、ほとんど朝の連続テレビ小説やソープオペラに思える展開はほほえましい。読者の気を引くために主筋ではないところを細かく描写し共感を得ようとするのは、19世紀の新聞小説からあったのだと文学史の知識が増えた。

 

 187*年の冬のパリ。深夜(というより夜明け前)に不審な紳士と大きなつづらをもった労務者をみかける。窃盗事件が相次いでいるので、労務者を警察署に連行すると(19世紀なので人権無視にならない)、つづらから美人の死体が! スペードの女王のトランプを根もとにさしたナイフで胸を刺されている。あいにく労務者は唖聾(ママ)。手話も知らないので、事情聴取もできない。老・零骨(ルコック)先生の知恵で、いったん釈放して尾行することにしたら、無人の家にはいる。捜査すると男の死体がある。きっと犯人が帰ってくると読んで、警察署長は待ち伏せする。「お鞠」と呼ぶ男が来たが、署長に気づいた男は逆に署長を大時計に閉じ込めてしまう。別働の探偵(警察官)は紳士の向かった駅で掏摸を捕えると、財布に美人の写真があるのをみつける(1878年には紙焼きの写真を持ち歩くくらいに普及していたんだ、ふーむ)。財布にある名刺から持ち主を見つけると、善池類次郎なる男。「お鞠」こと橋田鞠子を知っていて、秘密の部屋には同じトランプがある(しかもスペードの女王だけない)。そこで逮捕したが黙秘。この類次郎はなんと零骨先生のせがれ。唖聾の労務者を引き合わせようとしたものの、計画がどこからかもれて、労務者は探偵たちの目前で連れ去られた。ついに類次郎が犯人とされ、裁判が始まる。
 この事件は零骨先生の推薦で英国の鳥羽育介(トリハ・イクスケ)が担当する。この事件とは別に、鳥羽は莫大な資産を残した伴大佐の子孫を探している。係累がいないとみんされたので、財産は受け取り手がいないのだ。どうやら誉田照子がそうらしいと目星をつけた。この照子は類次郎の許嫁で、2週間もすれば結婚式を挙げる予定。もうひとり倉場倉太郎もそうらしく、仕事先の操車場にいくとけんもほろろのあつかい。倉場の娘・珠子(タマコ)が遊んでいるのを見て、操車場のなかで金貨をわざと落とすと、汽車が向かってくる中線路に落ちた金貨をタマコがひろう。汽車の行き先を変えて娘を助けるか、娘をあきらめて乗客を救うか、手元の連結器を前に倉場は煩悶(おお、トロッコ問題!)。
 計略の失敗を零骨先生らの失態と激怒する署長は、先生と絶縁。裁判が始まる。失意の零骨先生は現場で失敗した稗田守(ヒエダマモル)探偵を個人的に雇い入れ、類次郎の罪を晴らすことを決意する。
 裁判では類次郎が自筆と認めた手紙が読み上げられる。そこには、照子との結婚を前に詩ながら、鞠子に駆け落ちを申し込み、殺害された男に憎悪をぶつけ殺したいとの旨が書かれていた。弁護人は証拠と目されるものはすべて憶測と論述したが、陪審員は有罪で死罪との判決を下す。類次郎は上告の権利を棄却すると即座にいい、ここに死刑が決まった(裁判シーンはかなりページを割いて詳述される。無実の被疑者が鋭利な検察官に追及され絶体絶命の淵に追い詰められるのに読者は興奮したのだろう)。
 ここまでで全体の4割。類次郎の死刑執行までに、零骨先生と稗田探偵は事件を解決できるか。唯一の証人である唖聾の労務者の行方はどこに(警察署と警察官は零骨先生の手引きで逃がしたとみている)。鳥羽探偵はなにを目的にしているのか。(1-52回まで)

 

 ここの眼目は、探偵が犯人を捜索したところ発見したのが自分の係累(息子)であること。たいてい探偵は事件の利害に無関係な第三者であるのだが、零骨先生は突然事件の関係者になってしまった。社会の正義と個人の利害が衝突して行動できなくなってしまう。エラリー・クイーンは何度か失敗したので、ときに探偵するのを嫌がったものだが、零骨先生は一時の失意から回復し、いずれも達成するよう目標を立てて行動に移ることにしたのである。

 

    

 

なお、「トロッコ問題ですが、ポイントを“中立”の状態にすればトロッコはすぐ脱線して止まり、全ての作業員を助ける事が出来ます!」が正解。現実では行動の選択肢が二拓になることは(めったに)なく、たいていは複数の選択肢があります。サンデル先生の抽象的な問題を安易に現実に適用させてはいけません。
https://twitter.com/hornby32mm/status/1117308307415322624

 

2022/04/28 黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-2 1891年
2022/04/27 黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-3 1891年