odd_hatchの読書ノート

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野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 02

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 01の続き

 


アジャンダ壁画題賛

何と言う気違いじみた生の追求だ、
幸福の世界を称える飾りなき歌、
彼らは今日の法悦に全身を供える、
自分共は人間の歴史から分離して、
花や鳥の生活に帰へる。
直截に、衝動的に、自由に、
彼らは恋の舞踏に結びついて、
世界を小唄一つに取替える。
ああ、何と言う赤裸な世界だ、
神秘でしかも神秘のない生活
踊れ踊れ、娘達よ、肩をすくめて、
腕を曲げて、腰をゆすぶって
笛や歌は空に響く、
時(タイム)が枯れて仕舞うまで長く響くであろう。
今後千年も立ってやって来る巡礼者は、
私のように踊り子は依然踊っているを見、
音楽は依然鳴り渡っているを聞くであろう。
黒いお顔の姫君様、むき出しの脛と足、
(なんと魅力のある肉体の均斉美を、)
自然のお肌は黄金真珠の頸飾りに腕輪の外、
何等芸術と装飾を知らぬであろう。
何處へあなたはお出遊ばす、お姫様
姫も奴隷も答えない、お宮参りが目的ではあるまい、
汝までも尽きない無何有郷とやらへの行列であるに相違ない。
ああ、瞬間に耽ける幸福な放縦者よ、
消えながら永へに消えない麗はしの幽霊よ、
旗やリボンで飾った象様のお通りだ、さあ退いた、退いた、
鼻を弄ってはいけないぞ、耳に触ってはいけないぞ、
王様らしく堂々たる態度で象様を通らせるのだ。
卿等絵の巨匠よ、卿等は芸術を時と空間を超絶させる、
卿等は昔の祭礼に命じて今なお終らしめない魔法師だ、
卿等の願によって、うら若き貴婦人は口紅をつけている、
そして手にした華奢な鏡を離さない、
卿等の慈悲は、若いもの両人のためヘーレムをいつも新鮮にし、
恋に春の木の葉を永久に落とさせない。

 


天下に有名なアジャンタの洞窟は総数二十九、中五つは寺院で他は修道院である。紀元前一世紀頃から紀元後七世紀に亙って出来たもの。第八窟から第十三窟第六窟第七窟と第十四窟から第二十窟までの九窟が中頃のもので、その他十四は新しいものと言われている。本詩に取扱った第一窟の壁画は芸術的香気の一番高いものだが、第七世紀初頭にできたものらしく即ち新しい洞窟である。詩に歌ってあるように、本洞の作は云わば風俗続き物の一種でその表現が極めて現実的である。黒いお姫様の行列や第二洞窟画の若い夫人が鏡を持って口紅つけている所謂化粧の場面の如き、一般的に人の最も賞美するところになっている。私は詩の最後に書いているヘーレムの場面はお姫様の行列の背後に描いてある図であるが、いささか挑発的の感なき能わずである。

幽霊窟

古い陰鬱は裂ける、
人間の体臭が襲って来る。
回廊にさまよう冷気は退く、
太陽の光線が流れ込む。
顯はれたり裸形の男神女神、
雑然と円柱や壁を取り巻く・・・
これ悲鳴と争闘、
愛と憎悪、
平和と結婚の絵巻物、
肩と肩、手と手、胸と胸、
絡み合い縫れる、
こんがらかった蛇の塊り、
野蛮だが無邪気だ、
単純で残念だ、
何の隠す所なく真実だ、
要するに性の一曲ジャズ!
何と言う誘惑が唇と手の接触にあるよ、
人力高きに上らば誰か肉体相互の親しみを軽んじ得よう。
われ茫然立って日光の粉砕されるを見る、
嘆息の蝋燭一百、薄明を震わすを見る。
誰かこの時カーテン落ちて眼前の円柱や壁を覆うを願ったろうか。
私は耳にするように覚える、一つの笑、一つの軽蔑、いな預言者の声、
「汝願わば汝の眼を閉じよ、
されど心に刻まれたる歴史に面し、
誰かよく目を閉じえんや。
汝願わば汝の耳を覆え。
されど心の壁龕よりリンガムの呼びかけるに、
誰かよく耳を覆い得んや。
人生を感じて喜劇として或は悲劇となすも、
必竟リンガムはその主人公にて、
題目は『性』の一つあるのみ。」
オルガンの階音朗々と洞窟を動かし、
声を合わせて自然崇拝を称えるを覚える、
私は見るように覚える、すべての男神女神、円柱と壁を離れ、
飛んで人生礼賛を舞う、
威容目映きリンガムをめぐり、
舞踏の環限りなく流れて、ぐるぐる廻るぐるぐる廻る。

 


本誌はエコラの寺院カイラサ・テンブンを題材にしたもの。一つの巨大な岩を刻んで寺院の外壁を作り門を作りまた寺院そのものを作る。寺院の屋根も柱も壁も土台石もみな一つの同じ岩から成ったもの、この位驚異の洞窟は世界に比類がない、人これを見て唖然たらざるはない。所謂寺院でなく彫刻である。本洞窟寺院の本堂と言うべき二階の広間には十六以上の大石柱があり左右に張出した回廊には隙間なく彫刻が施され、その主題はシバやヴィシエユの神話である。印度教の根本信仰は自然崇拝であって、本寺院の主体もリンガムである。この信仰は性的交渉を重んずる結果、人を享楽の遊戯に誘うという非難がある。然しそれが人間を超人的心境にまで高めるならば私共はこの信仰に現実的な詩的一面のあることを思わねばならない。

荒廃せる仏院洞窟

「無」は空間と時を抱合し、
「無終」を形の制限するなく、
幽霊よりもっと非人情なり単調なり。
この光景ぐらい人を誑かすものなく、
人を欺くものなし・・・空虚!
沈黙!荒涼!
変化の魔法すべてを失い、
時は崩潰して休止に入る、
われ思うに、聖者か悪魔か、始めて洞窟を掘りし以来、
一年の月日も経過せしにはあらざるべしか・・・
古い幽気その力を失わずして、
円形の隠れ家に充ち、「無」の力を盡せり、
厳粛なる自然の命を無視して、
空間は「無」の掌に安らかに動かず、
自由は自らを「反響」に委ねる。
ああ、問うも答えざる陰鬱なる穴、
親交を否定する「超絶」の表象。
訪問者の接近を回避して、
何たる誇りと無関心を示すことぞ。
君もし人生の謎に答えよと問はば、
その応じる所、反響の唸り一つあるのみ、
非人情にして冷たし。
君に力あらば、その意味を知り得んも、
不幸にしてわれは能わず。

 


本詩もエロラの洞窟中仏教寺院に属し、今は荒廃して洞中何物もなきを見て作れるもの。

シバの三面

愛あればこそ一番大事なものを破壊する。
そして汝は所有の完全を説明する。
汝は破壊する・・・
殺戮の剣は決して不親切でない。
想像は偉大だが、破壊はもっと偉大だ、
灰燼のなかから新しい驚異が飛翔するではないか。
物を創造し直す機会はうれしい。
破壊の権利は創造者に与えられる、
創造者だけが本当に破壊の喜びに親しむ。
だが誰か創造と破壊をつなぐ保存の徳に感謝しないであろう。
ああ、創造保存破壊の三つよ、汝等は互いに結び合い、
風となって宇宙を疾走し永へに管弦楽を響かせる。
のぼれ高く、山嶽となって雲を突け、創造の力よ、
われ等は破壊の鉄足が人生を震動させるを知っている。

違った形と装飾を持った二十六の円柱は、
互いに正しく離れやって洞窟を支える。
正面奥の聖殿に顕れ給うは、
トルムルチ、シバ神三面の巨像、
醜の醜たる矮小奴が側に主人を守護している。
ああ、昔単なる石工がどうしてこの巨作を刻んだろうか、
われわれ近代人の夢想だにもしない所、
どんなに優れた彫刻家も仕遂げることの出来ないものだ。
崇拝未だ印度の地を払わないがため、
それが生命の新しさに栄える理由であろうか。
洞中私のほか誰もいない、
私の足音が沈黙を破って時間に反響し、
人生の神秘に答えるように覚える。
私の唇は言葉を失い、
自然の奏でる永劫の管弦楽に答えて、
ああ、ただ震えるのみ。

 


本詩はポンペイ付近エレフファンタの大彫刻柴シバの三面を歌った作。プラマ(創造)ヒンニユ(保存)ルドラ(破壊)の三面が一つになって作られている。なかで破壊の面が表情の圧力激甚なるを以て最も有名である。私は洞窟の入口で跣足の印度人が不器用に箒を動かして境内を掃いているのを見た、日本のお寺のように清潔であった。正面の敷石を歩くこと二町、右に廻ると石山が恐しく大きく刻まれた円柱で支へられた洞窟になっている。まことに迫力の偉大なもので誰でも唖然たらざるを得ない。

ガンジス河

尽きない天幅のガンジス河よ、
われ等あなたの宝石を舐めて、私の唇を清める。
ああ、太陽大慈のガンジス河よ、
あなたの尊い賦与を受けて、われ等はとこしえに凱歌の生命を唄う。
あなたは千変流転すれども、永劫不死の表徴となって岸辺をうるほし、
われ等あなたに触れて光明の世界を創造する。

 


ベナレスに於ける作。ガンジス河が恐ろしく濁っている。若し汚い揚子江の水が支那を表徴するならばガンジスの水も印度を物語るであろう。日本に「鰯の頭も信心から」の言葉があってみれば、印度人がこの水を礼拝するからとて私共に批評の権利がない。

ベナレス宗教風景

感覚の世界は消えた・・・人間は永劫の海辺に立って、あらゆる法則や制限を忘れ、ただ合掌することだけを知っている。
太陽を礼賛して、路なき天上を歩け。
黙想を水に送って、果てしなき魂の旅路に上れ、
たれがこういう風景を予知したであろうか。
川辺に王様がお造りになった御殿が続き、鳩や蝙蝠が出たり入ったりして、部屋の偶像に止まったり祭壇の花を啄んだりしている。御殿と御殿との間に、寺院の金ぴか円屋根や、竹の子形の塔が高く聳えている。段々を下りた水中には、片輪の乞食や額に呪を描いた行者や、婆羅門も不蝕賤民(ハリジャン)も一緒になって、太陽を見上げて合掌している・・・階級制度も、富の大小もここにはない、
たれがこういう風景を予知したであろうか。
川上から死体の燃えさしが、腕が足かは知らないが、何もない小さい魚たちに送られ、巡礼者が投げた花を従えて、ふわりふわりと流れて来る、
ああ、たれがこういう光景を予期したであろうか。

 


本詩は、ベナレス河の光景を取扱ったもの。河畔の賑いは朝十時頃一番盛んで、石段から水中に張出された二間四方位の板の間は、その数無慮千に及ぶということだ。私は驚くべき群衆あるものは水に入らんとしまたあるものは水から上らんとし、あるものは水に濡れた木綿を竹竿にかけて乾かさんとしまたあるものは黙然合掌して、呪文を唱えているのを眺めた。私は小舟に乗ってガンジス河をさか上った。右手に諸藩王国の王様が建てられた大高楼や寺院のかずかずを眺め、左手に際限なく続く砂山を見て、興味深きを覚えたがその理由は、一は幾千年来伝わった奇怪な宗教心を知り他は茫漠として痛ましい印度の自然・・・この二つの対照に暗示があったからである。船はマンカリンカ・ガットといって竹の子を逆さまにいくつも並べ立てたような印度教の塔が四つも高く聳えている所へ来た。その時ガンジス風景は最高潮に達するのである。今船は火葬場のガットの前通り、今しも二箇所に並んで死骸を焼いているのを眺めた。丸太の棒が井桁に組まれそこから灰色の煙が立ちのぼっている。その側に印度人の群れが座ったり立ったりしていたが、おそらく故人の最期を送る親類か友人達であったであろう。近寄ったならば、読経の声や悲しい泣声に私を動かすものがあったであろう。船は最後のガットまで進んだ。私は船を離れて川岸に上った。

果てしなき旅

岸の宮殿や寺院は、
遠い昔に王様たちが築いたもの・・・
戸を開いて鳩や鳥や蝙蝠を迎える。
それらは彫刻になった神様の影を廻り、
フリーズを飾る石の花束を啄む。
塔や円天井は打上げ花火となって、
空へ流れて神様へと急ぐ。
水辺のガットに集る非人、乞食、あるいは聖者、
その胸に抱くは一つの思想だ、一つの祈祷だ・・・
ああ、手を上げ、
神様を賛美せよ。
己が水上の影に告別して、
魂のみぞ知る果てしなき旅に上れ。
官能の世界は失われた・・・
現実の知らない薄明にわれ等は立っている。
われ等の義務は狼狽と制限を忘れることだ、
われ等の義務は手を合わせて祈祷することだ。
われ等が足元に見る半焼けの骨は、
寂しい人の捧げた花弁に見送られ、
水を下って、「未知」へと流れゆく。

 


本詩は前の作と同材料より成るもの。英詩集「ガンジス河我を呼ぶ」の中にある詩を自由訳せるものなり

水上の影

水上を見て疑えり、
裸体の影は幽かにて、
十字架の基督のごとく青白く、
四肢に灰を撒ける蝗の如くに痩せたり。
われ影にいう、君はヒマラヤを辞せるシバ神にあらずや、
人情なほ失はざるを求めて、
人の門戸をさまよう聖者にあらざるか。
われ今寂しき魂のこだまする所に、
孤独の道を求める人の歓喜に触れたり・・・
ああ、瑣事を捨ててより深きものに替えよ、
祈祷の羽をのべ魂の高き峰を極めよ。
われは所有するもの一つ一つ捨つるの喜びを知る、
われは神秘の足元に運ばれる幸いを知る、
われは肢体を木石に擬するものにあらず、
そを奔馬なりとし環、拍車をかけて乗り廻し、
香ばしき暁の空に凱歌を響かすことを冀なり。

 


本詩もベナレス河畔に於いての作。

 

 

野口米次郎定本詩集
第3巻
印度詩集

友文社
昭和二十二年五月十五日印刷 五月二十日発行 定価四十二苑

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 03に続く