odd_hatchの読書ノート

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野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 01


ベンガル美人

一度彼女を見た、しばしば彼女を見た。
彼女は消えたが、わが夕の空に残した輝きの一つ星・・・
その額に印さる小さき紅の符号。
黄金の縁取れる水色のサリー身に纏い、
椅子に横たわる彼女をわれは見た、恋を夢見る一匹の蛇。
微笑む彼女を見た・・・微笑みつ、二つの唇分けて、
蓮の花弁を落した、ああ、彼女の紅させる杯は要求に震えた。
泳ぎつ、中ぶらりんと浮きあがる二つの腕をただ見詰めた、
熱情を漁る細く色黒き一対の鰻。
いちど彼女を見た、しばしば彼女を見た。
彼女は消えたが、わが記憶に残る緑の草履・・・
深きベンガル湾よりかき集めたる緑色。
彼女の凡ては消えたが、ただ残る彼女の紅に繪取れる小さき踵・・・
ああ、彼女に遺産せる夕日の紅。


印度の舞姫

何という魔の指だ、痙攣した蛇だ・・・
太鼓の急速度につれて、神経をいやが上に尖らして生気を吸うが如しだ。
五臓六腑にしみ込んだ生気は、肩に腰に、頬に足に伝り広がって、
糸杉のような花車な体が音楽的律動のあらゆる形を作って、
形の千変万化を、手首や腰や足につけた金の輪が、ちゃらんちゃらんと踏韻していく。
彼女の歌う哀調に、
私は数千年の時が流れたが今だに何ものかを求め得ざる風の苦痛のようなものを感じ、
茫漠たる平野に自らを忘れ、また自らを見出してゆく水の悲鳴を聞く。
私は彼女に、永劫に滅びない肉体の法悦と、時と空間から解放された生命の陶酔とを見る。
彼女は印度の表徴だ、
彼女は長く見ているには余りに悩まし過ぎる。

ベナレスの貴婦人

私の前に一人の女が立っている。
暖い熱帯の血が流れて、黒い皮膚が玉子の黄味色になっている。
柔らかな微笑と咄嗟の憂鬱が、陰影の交叉を作り、閑雅な動作に服従するというのはこの婦人のことだと思った。
房々した髪のなかに震える眼の動き、云うにいえない横顔の落ち着き加減・・・花に止まった蝶のように、全身の意識が静まって、思慕の満足に酔っているというのはこの婦人のことだと思った。
女は今見事な大きな円柱の間をしづしづと歩いているが、昔物語に出て来る女のように、自分に驚くほど近いと感じた。母親が自分の魂よりもっと密接であるように、自分に離れてはいても、べたっとくっ付いているといったような感じだ。
私は彼女がきっと自分の知らない秘密を握っていると想像した。
非個人的なものが、彼女の魂を支配していると想像した。
彼女は自分共の世界より、もっともっと進んだ世界の人間であるに相違ないと想像した。
私は思った、「私が彼女のように、千年も二千年も昔のことをはっきり考え、他の人間がついぞ知ろうともしないことを記憶していたならば、どんなに嬉しいだろう。」
彼女はいつの間にやら私の眼界から消えて仕舞った。

皇女タヂ挽歌

大理石の巨大なる集積!
朝日は結晶して凱旋門をなし、
埋もれる世紀、女皇の哀愁を歌う。
我は詩と美の巡礼者、跪づき、
愛は美の創造者なりの言葉を肯定する。
ああ、人誰かシヤ・ジャハンとなって、
美の墳墓に愛の挽歌を奏でざらんや。
女皇タヂ眠る!
日光は朝の祝福を彼女に垂れる、
愛の腕を巻いて彼女の眠を深くせよ。
夢は霊化して美の表象となり、
幻の世界をすみずみにまで充たせり・・・
歌わんとする姿勢を取る光、
神秘の世界に目覚める旋律、
われ幸福を飲みほしその不合理なるを思うは、
人を恍惚たらしめんがためなるを知る。
われが見るもの虚偽の美なるを、誰か否定し得んや、
されど誰か現実と架空の相違を識別し得んや。

前庭の樅は長い水槽を挟み、
糸杉の歩哨数百、列を正して、
太陽にかがやき影を水中に投げる、
更に一つのもっと気高い世界の地下にあるをわれに教える。
水槽を中断するプラットフォームの彼方に、
霊廟タヂ巍然とし天に上り、垂直の均斉美全し・・・
ああ、幸にしてしかも不思議なる感激われに迫るものあり、
われ霊廟の餘りに美妙に、餘りに完全なるを見て、芸術に傷無き創造は人に想像の遊びを否定するを知る。
ああ、無上の調和美、われそれに甘き眩暈を感じ、そを逃れるの道なきに当惑せり。
花に、渦形あるは格子模様に、光明のすべてを盡し、
高貴なる石もて築ける城壁の奥深く、女皇タヂ眠る!
真珠の美に埋もれ給うやんごとなきエロイズ!
静かに、剣や殺戮の夢にうなされ給う勿れ、
愛の甘やからなる保管に自らを託し給え。
沈黙よ、彼女を平和の神秘に眠らせよ、
女皇眠り給う、眠る女皇にわれ挽歌を奏でん。
幻の白亜霊廟、永へに注意深き神護を彼女にそそげ。

 


本篇は世界七不思議の一。タヂ・マハルを歌えるもの。霊廟はシヤ・ジャハンが逝けし皇后タヂの記念に築きし大理石の殿宇、アグラにあり。筆者は昭和十年十二月十四日朝、セント・ジョーンズ・カレジの少壮教授達の案内で霊廟を見物した。霊廟の前庭はカーゾン卿の総督時代に出来たものだそうだ。案内の一教授が一見後の意見を徴したので私はいった「本建築に対しかれこれ言うのは、美を冒涜するものに近い。しかしもし私が君の質問に答えなければならぬならば、恐らく本建築が均斉一つに努力を集中して暗示的効果の乏しい点にあるであろう。かくも大理石を浪費的に使用したことは、まことに世界無比というべきに相違ない。贅沢もこの極度に達することは確に英雄的行為だ。シヤ・ジャハン王の美に対する敏感性は以て彼を大人物の一人とするに十分であろう。」本建築の完遂に王様は十箇年の年月と費用二千万ルピーを要したと言うことである。
本詩中エロイズとあるは、仏蘭西十一世紀の恋物語に有名な女性の名前。

 

緑深淵な円天井(ドーム)の下、
宙返りの飛行機、
いな鳶は上りまた下る。
空に夢を漁る霊だ、
神の御殿から花弁をまく百合だ、
何處にこれ以上驚くべき光景があろう。
上れ、上る鳶とともに空へ上れ、
そして頭を垂れて見よ、虚空の湾眼下に漠たり洋たり・・・
遥か下にガンジス血の汚れを知らずに流れ、
ヒマラヤの峰寂寂声なきを見るであろう。
ああ印度よ、お前は時の寝室から目覚めねばならない、跳ね起きよ、
お前は神への懺悔、罪の記憶を知らない、
そしてお前は今自分の歴史を書き始めねばならない。
他の国は苛立ち慄く、
権力に飢え惑える一寸法師だ、
襲撃に急ぐ吸血鬼だ。
上れ上れ、上れ往く鳶と共に空へ上れ、
そして頭を垂れてずっと遥か下を見よ・・・
印度人は依然として夢を積み重ね、
最も弱気は最も強きものなるを説明せんとしている、
そして彼らは抗議を炎にもやし、
祈祷を天空に上らせんとしている。

マハトマガンジー

彼は悩む大蛇でない、
彼は裸体の聖者、笑う山羊だ、
痩せた蟋蟀、堅い銅鉄。
ガンジーは病み、屋上のテントに横たわっている、愛の日光が雨さんさんと彼にそそぐ。)
頭に載せた木綿袋を指さして彼はいう、
「土中から飛出た人間だ、印度の泥が私に王冠つけて呉れる。」

世界の彼に負うところはいつか神様がお払いくださると信じ、
彼は見えない勝利を期して、天国近くの戦場へ出陣する、
地獄最終の湾まで響けと喇叭を吹きたてる。
痩せ細った寂しい英雄だ、
彼は返答如何と将来に挑戦し詰めよる。
世界を恐れ慄かした彼の魂はマンモスだ、
彼は反逆を叫んで世の暴戻を責める・・・
愛は潰され捨てられた、
人間の独立は粉砕された、
労働は名誉と褒賞を失った。
ああ、神様の正義はどこにある、何故に認められ賞賛されないか
彼は大地に接近して人生を寂しく歌う、
彼は夜と自愛を排して独り真理を求める、
空腹と悲しみの尽きない道を往く巡礼者だ。
彼以上に熱烈な愛国者はないであろう、
彼のような預言者の魂はないであろう。
貧民への奉仕は神を拝むに等しいと信ずる、
彼は所有物凡てを捨てて身軽しと信ずる、
「自分が貧民でなくてどうして貧民が救える」と彼はいう。
私はガンジーのテントを去った、階段を下った、
外のヤードへ出た・・・自然は社会階級も叱責も知らない、
鳥や樹木は平和の歌をうたって裕だ。
私は三匹の山羊が一つの木に寝そべっているのを見た、
彼らは寛容と愛の表徴だ。

マンゴウの木

爪先で歩け、静かに静かに、
マンゴウが眠りより目覚めるを恐れる。
地中に深く足を入れたる修道者だ、
マンゴウは熱情に近い睡眠に服従し、
身も心も官能の光に溶ける。
ああ沈黙を完全にならしめ、
マンゴウを逸楽の保管に安んじしめよ。
十一月真昼の太陽は静かに動かず、
ああ平和よ、風を守って静ならしめよ、
地上に織りなす光と影の緞子を乱すことをなからしめよ、
静かに、爪先で歩け。
修道者のマンゴウは眠る、
間もなく風は束縛を破り、
眠りを離れるものの楽しき苦痛をマンゴウに囁くに至るのであろう。
十分過ぎた、
二十分過ぎた・・・ほら、マンゴウは目覚めた。
修道者よマンゴウよ、
風は何を君に囁きしか、
マンゴウよ修道者よ、
眠の中に何の神秘ありしか、
君の我等に物語る忘却の消息(おとづれ)は何か。
マンゴウは留意せず、また語らず、
ただ修道者の姿にてその乱れたる髪を動かすのみだ。

 


タゴールの学園サンチニケタンに於ての作。

カリー女神

捧げまする山羊を受け給え。
破壊の門出に、滴る血潮をすすり給え、われ等御前にひれ伏す。
ああ、形相恐ろしきカリー様、
あなたの顔は朱に滲み、三つの眼は真夜中の星の如く、四本の腕はさながら毒蛇だ、われ等御前に額ずき震える。
われ等は破壊を恐れない・・・破壊は自然の大法、その試練に堪えて想像の燭光が迎えられる。破壊し給え。天に墨を流し、悪鬼を殺して地に髑髏の山を築き給え。
形相恐ろしきカリー様、
捧げまする山羊の首を受け給え。
われ等今その血潮に坐り、御前に額づくと雖も、時来ってあなたの形相とみに和らぎ、眼に平和の微笑、四本の腕自愛の卍(スワスチカ)となって、われらを抱くであろうを疑わない。
その時、あなたの髪の毛よりガンジスの水どうどうと流れ出て、われ等はその肥沃に浴するであろう。
されど、
今は破壊だ・・・われ等暴力を礼賛して、あなたの御前に額づきひれ伏す。

 


本詩のカリー女神は印度教の重要な地位を占め、カルカッタの主護者になっている。この女神を祀ってある場所に関して、印度人は所謂伝説の時代へと遡る。カリーはシバの良妻であって、破壊の神であると同時に淑徳の保護者とも云われる。カリーが死んだ時全智全能の神様はヒシニユに命じてその四本の足指を切らした。切り落とされた指の一本が地上に落ちた所、その落ち場所が今日カリー神社の立っている所だとされている。カルカッタの同神社はこの女神の足指が祀ってあるのである。神社の入り口で粗末な三角版の想像画を売っている。見ると三つの眼と四本の手を持っている。神社の建物は汚い灰色の四角形で、上に青黄緑の三色で塗った円屋根がついている。女神は建物の中央部、奥まった薄暗い穴みたいなような所に祀られている。泥足丸裸かの信者たちが押し合いへし合いあって女神をのぞき込んでいる。観光の訪問者はここに集る乞食を見て驚かされないはずはない。或は片目或は腕無し、或は水膨れ或はらい病、あるものは頭髪鳥の巣の如く、あるものは炭団に目鼻らしいものが付いたようだ。有りと有らゆる形の乞食が印度各地から集っていると言うことである。この幾百と言う乞食が神社の入り口にべったり座っているので、訪問者はその頭の上を歩かねば通れない位の雑踏ぶりである。神社の南端の一角に三人の醜婦がでば包丁を磨いて、花輪で首を飾った三月ばかりの小さい山羊を断頭台にかけて殺している。私の訪れた時、真赤な血が地上に流れていた所を見ると、その日に沢山の山羊が殺されてカリー女神に捧げられたことを知った。

踊るシバ神

笑をふくんだ頬。
肉付きのいい頤と首。
切れ味のいい眼。
頭に王冠を戴き、右の足で鬼を踏みにぢる。
四本の手のうち後部の二本、一は焔を握り、他は鈴を振る、・・・人生を燃やす焔だ、号令する鈴だ。前部の二本、一は上向けた手の平で祝福し、他はだらりと垂れて、ふんわりと上げた左の足と均斉を作る。
ああ、何と言う肢体の動き、自然の精気を一身に集めている。
演じ給う舞踏と「宇宙」の一曲、陰陽のさす手のからみ合い、とけ合いだ。
焔は燃える、鈴はりんりんと鳴る・・・さあ、右の手だ、左の足だ、もっと上げて、ぐっと引いて、力をこめて、飛ぶのだ、飛ぶのだ。


私はマドラス滞在中一日博物館へ赴く、館蔵所に係る青銅「踊るシバ神」を見んがため。私はかねがねこの作品の優れたことを聞いていたが、今その実際を見て私の期待の報いられたことを喜んだ。南部印度に於ける十二世紀芸術を小さい形に背負っているといっても過言でない。私はエレファンタ島やエロラのカイラサ寺院で、リンガム(男根)に依って暗示されたシバ神の無限の生命に触れたが、ここではシバ神がナタラジヤと姿を変えて踊り給う。舞踏の曲は「宇宙」、いうまでもなく天地万象の精気を肢体の躍動一つに集めたものだ。
その日夜に入り私は友人たちを伴い開催中のスワラジ展覧会へ行った、南部舞踏を一覧せんがためであった。舞踏場は急拵えの劇場で展覧会場に隣っている。観客無慮三千と算せられるもの凄い光景を眺めながら場内に入ると、舞台で踊っている二人の若い女は私を遥かに見て合唱の祝を捧げる。私は座席につき隣り合って座った説明役らしい印度人に博物館の青銅ナタラジヤと現代印度舞踏の関係を語ると、彼はわが意を得たりの微笑を洩し私の手を握った。私が今この舞踏を見るに感情の奔逸と自由を迸しらせる肢体の動きは極めて音律的に急テンポだ。踊り子は甲高い声で歌う歌手につれて踊り、声の止まる時肢体の活動がぱたっと止まって観客に余韻嫋嫋たるものを感じさせる。一回が終わると一人が起って観客にいった、「今夕私共は遠来の珍客を迎えている、日本の詩人に一言の挨拶を要求したい。」雷の如き拍手に送られて私は舞台に上がり、簡単な言葉で所感を述べると再び雷の如き拍手が起こった。
私はこの夜宿へ帰り寝についても、引く手さす手の舞踏が忘れられなかった・・・げにや人生は舞踏の一曲だ。シバ神となって踊り抜くことだ。

 

 

野口米次郎定本詩集
第3巻
印度詩集

友文社
昭和二十二年五月十五日印刷 五月二十日発行 定価四十二苑

 

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