odd_hatchの読書ノート

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野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 06 タゴール叙情詩 劇詩

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 05の続き

 




そよ吹く四月よ漂泊ふ四月よ

そよ吹く四月よ、漂泊ふ四月よ、 .
お前の音楽の律動で私を揺さぶれ。
甘い驚愕で私に触れ、
お前の妖術で私の枝を慄かせよ。
お前は路傍の眠りから私を驚かし、
私は人生の夢から目覚めさせる。
奇異な気儘なお前の気分・・・
媚びる、からかう、お前は移気だ。
そよ吹く四月よ漂泊ふ四月よ
私は私の寂しい影と共に住み、
有らゆるお前の定めない空想・・・
はっぱのような言葉、軽く飛ぶ足踏みを知って居る。
お前の過ぎ行く呼吸と耳語に触れて、
私の枝のすべては花咲き、
お前に接吻されて私の木の葉のすべては降服の動揺に破れる。


夕が西の水上にしのび込む時

夕が西の水上にしのび込む時、
空気は影なき影の翼に慄く。
空が星で宝玉付けた沈黙の冠を戴き、
夢が眠の深さの上で踊る時、
百合が朝に拾った信仰を失い、
周集てて自分の心弱い花弁を閉じる。
鳥は私かに巣を離れ、
路のない天空の路で歌を漁る。

 


世界が若かった時

世界が若かった時、愛の神よ、あなたは地を踏んで人間の間を歩いた。
あなたの羽ばたく旗は信号を煌かし、青年は走り出てあなたを迎えた。青年の思想は薔薇のように赤く、空気は酒のように香ばしかった。

少女は夕になると、あなたの神龕へ来て飢えた燈火に油を注いだ。
主人はあなたの殿堂の階段に立って頌歌をうたい、麝香鹿は配偶を連れてあなたの手を舐め、虎や牝虎はあなたの足元で座った。

愛に臆病な娘達はあなたの同情を祈り、あなたは目星を付けて狙うために額を上げた。物好きな男は彼らの胸を射ろうとしてあなたの矢壺から矢を偸んだ。
内気な花嫁はあなたが森の陰で眠った時、あなたの側を一度過ぎた二度過ぎた。彼女は偶然であるように帯の鈴を鳴らし、眼の隅からあなたを見詰めた。

もう一度地上へ下りて下さい、愛の神よ、花は争ってあなたの頭髪の中でみずからを飾らんとし、花嫁の寝台を照らす燈火はあなたの足音に耳を傾け、男の空しい杯はあなたの悩ましい喜悦の酒を待っている。

 

禁欲の行者よあなたの憤怒は

禁欲の行者よあなたの憤怒は愛の神霊を焼きつくし、魂を自由にして世界の上に撒き散らした。
あなたの嘆息は漠然と漂泊ふ夏の微風を悩まし、あなたの形のない涙の霧は薄暮を横ざまに彷徨う。
あなたの悲しい無言の哀哭はあらゆるものの胸に附着し、あなたの無声の声は夢となって香ばしい四月の沈黙に宿る。

夕の雲は暗黒に流れて恍惚の世界が破壊される、神秘の意味は太陽に胸を開く向日葵の花弁に閉ざされる。
過ぎし日愛人の会所であった草地には、花が接吻を心に浮べて咲き出るであろう、木の間の日光は幻の面紗を落とすであろう。
禁欲の行者よ、あなたの憤怒は愛の神を焼きつくし、魂を世界の心に不朽ならしめた。



印度の伝説にシバ神即ち自在天が怒って愛の神を焼いて灰にしたとある。

 


忍冬は時の潮に乗って来る

四月の忍冬(スイカズラ)は時の潮に乗って来る
分れの微笑が既にその唇に仄めく、
だが、木の葉は彼女を取巻き、
「去ってはいけない」と囁き、
てんでに手を拍ち踊る。

天の星は忍冬にお召しの言葉を送る、
「お出で、終夜私達はお前を待っている!」
だが、木の葉は彼女を取り巻き、
「去ってはいけない」と囁き、
てんでに手を拍ち踊る。

微風は南方から来て忍冬をめぐり、
「私の愛人よ、時は暗い海岸や山の麓を過ぎてゆく」と囁き、
「一緒にお出で、月が欠けて暗くならない前に」と叫ぶ、
だが、木の葉は彼女を取り巻き、
「去ってはいけない」と囁き、
てんでに手を拍ち踊る。

彼女は今霧の彼方に立っている

彼女は今、霧の彼方に立っている、でも嘗ては彼女は暁の星だった。
彼女は夜の来る時、私に出会う為に昼間の群る光線から隠れてやって来た。

暁になると彼女の歌は路傍の誘惑をうたって私の血をかき乱し、
夕になると彼女の沈黙は私の知らないことを打明ける。

だが彼女は絶えず面紗を取替えて夜明け日の入りそれぞれと、
違った愛の会釈を呉れという。

ああ、あなたは不思議な国の処女、海のほとりに住んでいる。

私はあなたを秋晴れの空に見る、
私はあなたを寂しい夏の夜に見る、
私はあなたを夢の心のなかに見る、
ああ、あなたは不思議な国の処女・・・
私はあなたの声を聞き、空にあなたを探し往く。
私はあなたの門に着くまでは、
海のほとりを彷徨い歩く、
あなたは不思議な国の処女だ。


私は終日終夜あなたのことを考える

私は終日終夜あなたのことを考える、私の愛人よ、
だがあなたは手からこぼれる余剰の時間に於いてのみ私を思って下さる。
あきあきするほど長い年月、
私は人生を通じてあなただけを待っている、
だがあなたは思いだす瞬間にのみ私へ来て下さる。
私の夜はあなたの足音に耳を傾けて費やされる、
だが私の目が「左様なら」をいうにさへ疲れる朝になって、
あなたは初めて私へ来て下さる。
あなたは「時」の凱旋行列とともに、
若しその時私があなたに出会ったなら、どうか私の心に一団の色彩を添えさせて下さい。

愛人は葬礼に溢れて来る

ああ、愛人よ、あなたは壮麗に溢れ、
出現の突撃はあたりの風を傷付ける。
薄暮の不確かな微光のもとに密会する必要は最早ない、
燃える燈火を振乱し乱れる笑を真夜中に投げ給え。
私の右の手を掴み、瞬間の価値なき有らゆる執着から、
又巻きつく遅鈍な夢から私を救い給え、王様よ、私の愛人よ。
そして眠れるものどもゆり起こし、あなたの荘厳な沈黙に抱かれて、
如何に私が助けなきもの、
如何に私が喜ぶかを人々に見せしめ給え。

 


沙漠は静かな微笑で

沙漠は静かな微笑で正午の太陽を嘲弄した。
ちんちくりんで寂しい畸形の灌木は、不親切な運命でけち臭くされた大地の悪心を立証した。
私は葡萄の一房を籠に入れ、私の眼からそれを遠ざけた、
それは絶対に必要がない時に、私を誘惑するかもしれないと恐れたが為めだ。
太陽の輝きは時の退潮に連れて赤くなった、
風は生命のない荊の間にぱらぱらと破れて仕舞った。
私は時が、頭到間違って来たと思い、
私は籠を開けた、
だが、私の果実は皆熱気のために萎びて仕舞った。

私が物乞いをした時

私が物乞いをした時、あなたはよく私を追いして下さった。私はあなたのお別れの一瞥に微笑があるのを見た。それ以来私は一教訓を学んだ。「お前は決して物を恵まれてはいけない」という愛しみ深い言葉を聞いたので、私は乞食の最後の鉢を破った。
朝から群衆があなたの門口に集った。彼らの要求すべてを満たして下さい。夕になって彼等が散り、叫び声が静まり、星が生まれない以前から響いて来る暗黒と新しく生れる光明との争闘に耳を傾けて下さい。私はあなたの足元に尊敬を以て私の祈祷を捧げる、「主よ、あなたの手に私の琵琶を取って調子を合わせて下さい。」

春が私共の家へやって来て

春が私共の家へやって来て、
「入らしてください」と叫びました。
彼女は嬉しい秘密の囁と新しい木の葉の抒情詩と思って来ました。
私は空想に耽った、あなたは糸を座って紡いでいました。
春は顧みられないので立去りました。
私共は彼女の過ぎゆく影と薔薇の破片とを見て飛び上りました。

愛人よ、今遠くあなたは去っている、春は私共の家に遣って来て、
「入らしてください」と叫びます。
彼女は定めない影の職業と鳩の元気ないくうくうの声を持って来ました。
私は茫然と窓に座り、地上の幻影は私に悲しい夢を紡いでいる。
春が賜物として秘密の悲哀を持って来た今となると、
有らゆる戸が彼女に向かって開かれて居ります。

お前は死の荘厳で私の人生を偉大にした

愛よ、お前は死の荘厳で私の人生を偉大にした。私の思想と夢のすべての告別の輝く閃光で着色した。涙で洗われた透明な光は、私共の人生が没する最後の間際に、極楽の暗示を洩らすであろう。その時星に輝く愛の天体から燃えるような接吻が降って、地上の悲哀を焼き盡し、寂滅の恍惚裡にその最後を赫灼たらしめるであろう。
愛よ。お前は生と死とを私のために、広大無辺な一つの驚異として呉れた。

柔和な薄暮が折り重なる面紗の下に

柔和な薄暮が折り重なる面紗の下に、埃だらけの疲労の負傷と消耗の印を隠すように、愛人よ、お前を失った私の大きな悲哀をしてその完全な沈黙を私の心にしのばしめよ。切れ切れになった骸骨と、扭じ呉れて散乱した無意味な破壊物、まちまちの廃墟の記念品すべてを、愛人よ、お前の追憶で清め苦痛と平和の尽きない諧調に満ちた黄昏のあたりに点滅させ給え。


これ等一三篇の作は、タゴールが三度目に日本を訪問した時私に呉れたもので、その当時改造社の依頼で翻訳して改造誌上に発表したものであるが、私は今回これらに大修正を加えた。これらの詩は英国マクミラン社出版の英訳タゴール全集中にも入って居らない。

 


野口米次郎定本詩集
第3巻
印度詩集

友文社
昭和二十二年五月十五日印刷 五月二十日発行 定価四十二苑

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 07 タゴール「アマとヴァナヤカ(劇詩)」に続く