odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「魔の山」(筑摩書房)第5章-1 セテムブリーニは陰謀論者

2023/05/09 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第4章 ただの人ハンスが入会儀式を完了する 1924年の続き

 

 ハンスの行動性向が次第に明らかになる。彼は規則や制度に必ず敬意を払い、ルーティンな生活を送る。年上の男性のいうことはよく聞き、かわりに、女性や年下には無遠慮で、高圧的になりやすい。ハンスの両親は早くに亡くなっていて、親の愛を知らない。なので、父性を求めたがり指導を求めたがる。他人に感化されやすい。
 前の章で患者と認定されたハンスは療養所に受け入れられ、好奇心の目にさらされ、しかしなにごとも決定しないモラトリアムを続ける。

 

第5章
「永遠のスープと突然の光明」 ・・・ 最初の3週間をかくのに300ページ以上費やしたが、以後はもっと時間は早く進む。それが療養所の患者の時間だから。ハンスはすっかり患者生活のルーティンになじんでいて、カレンダーがないので曜日の感覚を失う。チームセンに家に連絡したらと勧められると、誰も待っていないと答える。セテムブリーニが来て、これからあなたの先導役になろうという。
(セテムブリーニの話は、たぶん患者は人生から脱落しているし、死にあまりに近い所にいて生と死を切り離さないように考えるのが大事だということ。同時期の「ゲーテトルストイ」で生を自然といい、精神と対立するものとしているから、そことの関連で考えなさいということなのだろう。自分には、セテムブリーニもハンスもモッブ(@アレント)の性格を持っているというのが発見。彼らは自分の価値をあまり高く評価していないし、自分を社会の余計者とみているから。)
(ハンスやセテムブリーニは療養所の時間、患者の時間が麓の世俗の時間と異なることをしきりと強調する。マンが執筆していたころはアインシュタイン相対性理論が大変に有名になっていて、時間と空間が切断できないという考えが広まっていた。その反映をみてもよさそうだ。)

「あ、見える」  ・・・ 予定されていたレントゲン写真を撮る。1910年代のレントゲン撮影の様子。

「彼のうしろでまた放電が始まり、パチパチパンパンと盛んに鳴って、やがて平静に帰った。対物レンズはハンス・カストルプの体内をのぞき終わったのである。」「スイッチを切り変える音がした。モーターが動きはじめ、すさまじい勢いで空にむかって唸り出したが、次の操作で一定の速度に調整され、床が規則的に震動した。赤い光が細長く、垂直に、静かに威嚇するようにこちらをのぞいていた。どこかで電光がパチパチ鳴った。そしてゆっくりと、乳色に光りながら、明けゆく窓のように、闇のなかから蛍光板の青白い四角形が浮かびあがってきた。」

 見ることが許されないもの(身体の内部)をレントゲン写真でみる。自分の墓場を生前にのぞくことであり、いつか死ぬことをハンスは知る。前の章でセテムブリーニが言っていた生と死を具体的な事物の問題としてとらえたのだ。
(撮影の控室にショーシャ夫人も来ていた。彼女はベーレンス顧問官が描く油絵のモデルになっていて、控室で夫人はヨーアヒムにだけ話しかける。ハンスの憧れと嫉妬を象徴するシーン。この章の終わりでようやくハンスは夫人と話をする。そのときのハンスの上ずった興奮はここに起因している。なんという長い伏線を貼ったものだ。)

「自由」 ・・・ 10月近くの9月で、7週目。家に連絡しなければということで、状況説明と定期的な送金を頼む手紙を書く。セテムブリーニは「病気は放縦(ほうしょう)の表れである」(当時の偏見)といい、精神分析は悪だと断じる。

「水銀の気まぐれ」 ・・・ 10月に遅ればせの夏が来て、ハンスはショーシャ夫人に首ったけに惚れ込む。姿を見るだけで心躍り、声を聞くだけで嬉しくなる。ときにチームセンを散歩にさそい、ショーシャ夫人を追い越すときにあいさつするという冒険をしたりする。熱が下がったように思えたが、すぐに38度に戻ってしまった。
(世紀末ドイツでは男女の交際が禁じられていたので、恋愛はなかなか進展しない。結核という病気の暗喩は禁欲なので、若いハンスは性欲を感じない。)

「百科事典」 ・・・ ハンスは恋愛には赤ん坊並みなので、療養者のいい慰み者になっていた。セテムブリーニと雑談。彼は「進歩促進国際連盟」なる国際組織の一員で、ダーウィン進化論に基づき、人類の進化促進を期すべく啓蒙活動に邁進している。アジア人の進出により病んだ状態が(ヨーロッパの)人間に蔓延しつつあり、その頽落から脱出するには人間の苦悩を克服し健康を促進するしかないのである。といいながらもセテムブリーニは自己破壊衝動をもっていて肉体を嫌悪している。彼の病状はハンスよりも悪いから。なのでセテムブリーニはハンスが仕事を継ぐよう期待し、この魔女の島(療養所のこと)から逃げるように勧める。
(セテムブリーニは「民主主義者」というより、陰謀論で国家止揚をもくろむ秘密結社員のよう。上にまとめた彼の構想は19世紀末の陰謀論レイシズムアマルガムであり、生の意義を強調して、精神的進化を遂げようをいうのも当時流行した自然哲学や生の哲学を模したものだ。新潮文庫のサマリーではセテムブリーニは「理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者」とされているが、穏健な代議制民主主義の思想家ではまったくない。「理性と道徳に絶対の信頼を置く」のはむしろ全体主義者や独裁者だろう。)

 

 ここまでで全体の3分の1が終わったという悠々ぶり。いつになったら本筋がはじまるのだろう。ハンスは自分の意見を持たないから弁証法の最初の引き金にはならない。ハンスへの教え諭しで対立はあっても止揚がない。上昇はここにはなくて(なにしろアルプスの高山にあるので、これ以上に市民社会が上ることはない)、滞留か下降しか起こらないのだ。


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2023/04/29 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第5章-2 「若きハンスの悩み」はゲーテのパロディ 1924年に続く