2023/05/10 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第3章 肺病は情熱不足と性欲抑圧を暗喩する病 1924年の続き
20世紀初頭なので、結核のメカニズムは知られていた(結核菌は同定済)が、よい治療法はない。抗生物質はみつかっていないし、レントゲンも普及していない(感度も悪い)。できる外科的処置は肺の切除や気胸くらい。よほどのことがなければ完治は難しいし、サナトリウムで長期療養するには費用が掛かる(ハンスは毎年の費用は12,000フランと試算する)。これだけの資産を持っているものだけしか療養所にいられない。ここにいるのは貴族や高級官僚、ブルジョアくらいで、とても偏った社会構成になっている。かわりにヨーロッパ中の人がいるという多文化共生が実現(まあ、ヨーロッパの上流階級は国家や民族を超えた付き合いをしているグローバルな人々なのだ。とはいえ、ロシア人に対する蔑視は強い)。
療養所がユニークなのは、入るのは簡単だが、出ていくのは難しいところだ。外に出るための資格を得ることが困難。なので人は増えるがなかなか減らない。時々減るのは死者がでたときだけ。療養者には豊富な栄養と休息しかやることがないので、閑で退屈だ。時間が流れる感覚が資本主義や近代国家とは異なる療養所は、天国なのか地獄なのか。(セテムブリーニは「故郷」であるという。世俗の社会とは切れている)。
第4章
「必要な買い物」 ・・・ 3日目。ハンスは8月なのに雪が降っているのに驚き、毛布を買い足しにいく。帰りにセテムブリーニに会い、「試験採用ですな」と揶揄される。
(ハンスは「病気は高貴で賢明にし尊敬できる」というと、セテムブリーニは「違う、屈辱なのだ」と反論する。19世紀と20世紀の病気感がぶつかり合う。セテムブリーニは理性と啓蒙を貴ぶ人。そのようなユマニストがシニカルで冷笑的でペダンティックな姿で現れるという皮肉。)
「時間感覚についての仮説」 ・・・ ハンス「療養所では時間は長く感じるというが、ルーティンな生活をすると時間は短くなる」
(ハイデガーの「ダス・マン(世人)」やアーレントのモッブの生き方になると、こういう時間感覚になるのではないかと妄想。)
「フランス語をしゃべってみる」 ・・・ 暇を持て余すが療養者たちと親しくなる気になれない。ベーレンス院長はハンスに「やあ、高みの見物人さん」と呼びかけるほど。あまりドイツ語がうまくないフランス人婦人とフランス語で喋れて、ハンスは打ち解けたような気分になる。
(このフランス語の会話はのちにショーシャ夫人とおこなわれる会話の前触れ。ドイツ語では愛を語れないハンスはフランス語という異国の言葉で愛を語れるのだ。)
「政治的嫌疑」 ・・・ 日曜日。療養所で音楽会が開かれる。遅れてきたセテムブリーニは「音楽には政治的嫌悪を感じる。音楽は麻痺させ、眠り込ませ、活動や進歩の邪魔をする。悪魔的だ」
(この時代、ワーグナーの陶酔やヴェルディの鼓舞がナショナリズム高揚と結びついていた。音楽は倫理的・内省的であるが、一方でポピュリズムと扇動に使われる。「音楽には政治的嫌悪を感じる」はのちのワーグナー講演や「ファウスト博士」につながる。)
「ヒッペ」 ・・・ ハンスは療養所にいると息が詰まるので、ひとりで散歩に出かける。しかし鼻血がでるわ、体が震えるわ、息切れがするわ、膝が立たないわとさんざんな始末になった。村の人に頼んで馬車にのってようやく帰った。
(ヒッペは休憩途中に思いだした13歳の時のクラスメイト。一度も話したことがないのに、鉛筆を借りるために勇気を振り絞って頼んだことがある。この話と同じことがのちの第5章「ワルプルギスの夜」でショーシャ夫人との間で行われる。またハンスは散歩の最中に即興で歌う。ちょうどワンダーフォーゲル運動が盛んな時で、ハンスも経験があったことがわかる。後に学生組合に入っていたことがわかる。)
2013/11/07 上山安敏「世紀末ドイツの若者」(講談社学術文庫)
「精神分析」 ・・・ 療養所の講演会に潜り込むことができ、体調不良は知られない。クロコフスキー医師が「愛」について講演していた。「抑圧された愛は病気の姿で現れる」。紗の袖に覆われたショーシャ夫人の腕に惹かれる。
(これも後にクロコフスキー医師がオカルトに耽溺することの前触れ。)
「種々の疑惑と考慮」 ・・・ 療養所に来て1週間目の火曜日に、請求書が届く。支払いに事務室に行き、ベーレンス顧問官の過去を知る。妻がここで死に、自分も肺病を病んでいる。すでに10年間ここで治療に携わっている。
「食卓での談話」 ・・・ 2週間目の昼食時に、家庭教師のエンゲルハルト嬢(老年)にショーシャ夫人のことを尋ねる。
(療養所の暮らしでは食事がもっとも重要な社交機会なので、ハンスはなかなかショーシャ夫人と話すことができない。ハンスは熱であたまがぐらぐらしている。)
「不安の昂進。二人の祖父とたそがれどきの舟遊びについて」 ・・・ ハンスはショーシャ夫人に恋するが、療養所では彼女の取り巻きがたくさんいるのでなかなか進展しない(チームセンはマルシャに首ったけでハンスの話を聞かない)。ハンスは彼女と視線をかわそうといろいろ工作する。時に反応が会ったり、無視されたり。ロドヴィコ・セテムブリーニの過去と彼の思想背景がわかる。彼の祖父はイタリア独立運動家。その血をひいた孫は民主ブルジョア革命を志向している。ハンスはその社会変革思想についていけないと感じ、自分が勉強している工学は国家を超えると信じている。
(19世紀イタリアはオーストリア帝国に占領されて独立要求が強い。一方ドイツは君主国プロシャが近代化して周囲の国家を併合していった。ナショナリズム志向は強いが、政治背景が異なるので、セテムブリーニの民主主義(これは代議制ではない)とハンスの君主制が対立するのである。)
(セテムブリーニにハンスの教育係を買って出て、それはハンスを自分の運動の後継者ないしスポークスマンに仕立て上げようという目的である。これは人選を間違っていないか。モッブであるハンスはなるほど空っぽな頭の持ち主ではあるが、シニカルな観察者なので運動の指導者にはなれない。むしろ軍人志望のヨーアヒム・チームセンのほうが観念を吹き込むには適当な相手ではなかったか。ともあれ、この二人は観念を受け入れがたっているピョートルやキリーロフやシャートフには似ていないのであって、セテムブリーニはスタヴローギンの役割を果たせないのだ。)
「体温計」 ・・・ そろそろ3週間目になりそうなころ、ハンスは微熱が下がらないので、看護婦に相談する。彼女は体温計を売りつけた。ハンスは自室で測ってみると37.6℃。そのことを食堂で打ち明けると、療養者たちは突然ハンスに親しげになり、さまざまなアドバイスをするようになった。翌日、ベーレンス顧問官に診察してもらうと、肺病であると診断が下り、即日入院となる。
(体温計で体温を測る、医師に診察されるというのは自分の身体を外部化して、他人に物としてさらすこと。ハンスもチームセンの診察の様子を「仕立て屋に似ている」と感心するくらい。他人に見られる、測定されることによって「患者」が誕生するのであり、診断結果を受け入れることでハンスは自分を「患者」と認識するのだ。それでようやく療養院の患者たちはハンスを「仲間」として受け入れる。ハンスのイニシエーションが完了した。)
トーマス・マンの長編の問題は導入部がとても長いこと。全体の4分の1が終わったところで、ようやく本筋が始まった。なんとも気の長い小説。ここまで来るのに、ときに読書を止めようかと思ったほど。
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2023/05/08 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第5章-1 セテムブリーニは陰謀論者 1924年に続く