odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「魔の山」(筑摩書房)第7章-1 ペーペルコルン氏はカリスマ独裁者のカリカチュア

2023/04/27 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第6章-2 「zauberberg」は「奇人変人たちの山」 1924年の続き

 

 「魔の山」の饗宴が続き、ついに時間感覚は失われる。第7章になると、ハンス到着以後の年数は記載されなくなり、月の名前とおおよその時刻だけが記録されることになる。しかし人はゆっくりと変わる。「低地」で育まれた個性は療養所のルールに従ううちに、患者らしいものになっていく。強い主張も同じことを繰り返していくうちに陳腐になり、誰も耳を傾けなくなる。時間感覚が失われ、日常が閑と退屈ばかりになると、個性はスポイルされていく。ときに患者の中から「旅に出る(患者の隠語)」人もでてくる。

 

第7章
「海べの散歩」 ・・・ 療養所では時間の流れが違う。ハンスが来てからどのくらいの時が立ったのかわからない。同じ内容の一日を過ごすうちに、明日・昨日・一年後・一年前が同じ意味で語られる。なお、ショーシャ夫人は療養所に帰っていた。
(雪でまっしろな高地を小舟の帆が見える浜辺に例える。ハンブルグ生まれのマンにとっては日常や低地の象徴はバルト海なのだ。)

「ペーペルコルン氏(MynheerPeeperkorn)」 ・・・ ショーシャ夫人と一緒にやってきたのはペーペルコルン氏。中年で引退した実業家がショーシャ夫人につきまとっているので、療養所の評判になった。
(彼はジャワでコーヒー園を経営していたオランダ人で、お調子者の成金だ。ヨーロッパが帝国主義植民地政策を進めていた時代なので、インドネシア帰りのペーペルコルンは典型的なモッブ@アーレント。)

「トゥエンティー・ワン(vingtetun)」 ・・・ 読書室で新聞を読んでいると、ハンスの背後からショーシャ夫人が呼びかけた。ハンスは振り向かずに背中越しの会話をする。そこにペーテルコルンが夫人を探しに来て、二人がいるのを見つけるとパーティをしようと言い出す。12人を集め、氏の金でどんちゃんさわぎ。タイトルのカードゲームをはじめ、氏が言いだした大きな掛け金で患者たちは興奮してくる(ハンスと夫人を除く)。パーティは深夜2時まで続き、ようやく彼らは眠りにつく。
(ペーテルコルンは中身はがらんどうの無内容な男であるが、大金と支配者的性格によって、患者たちに君臨するようになり、患者たちも彼の支配を受け入れる。モッブの中から生まれてくる全体主義政治家のカリカチュアだ。)

「ペーペルコルン氏(つづき)」 ・・・ 知性に乏しく弁舌が立つわけではないが、ペーペルコルン氏の存在感は圧倒的で、セテムブリーニとナフタの論争はすっかり影薄くなり、彼らを小人(しょうじん)にみせるのだった。ある晩、ハンスが広間で読書しているところにショーシャ夫人が入ってくる。夫人はペーペルコルンの愛情には仕えないではいられない、でも苦労が絶えないし、先行きには不安があるという。ハンスが「僕が待っている」というと、夫人はハンスにロシア式のキスをした。その翌日、ハンスがペーペルコルンを見舞うと、ハンスは夫人との関係を誤解しているという。「ハンスと夫人は『言わないごっこ』の賭けをしている」「私と会う前は、ハンスは夫人の愛人」「夫人はハンスに従順に従っている」。ハンスが穏やかに否定すると、ペーペルコルンはハンスをdu(あなた)と呼ぶ、兄弟関係にあると宣言する。
(ペーペルコルンは独裁者の特長を備えた人物。知識人の議論を楽しんでいる療養所の人たちの関心を酒と歌と人柄で一気にとらえ、あたりを支配する。彼には目的はなく、その場限りの娯楽を提供するにすぎず、ショーシャ夫人が不安になるようにどこに連れていくかは示さない。彼がいる限り、人々はついていく。そこから離れるには彼が失敗して幻影に従っていたと人々を幻滅させることしかない。そのような独裁者をどうするのか。最後のシーンは独裁者がハンスを後継者に選んだのだとみなせる。そしてハンスの恋はとてもぎくしゃくしている。おそらくそれはハンスのミソジニーのせい。)

「ペーペルコルン氏(むすび)」 ・・・ 5月(ハンス到着後何年目かはわからない)、ペーペルコルンは馬車に乗ってフリューエラ谷の瀑布を見に行こうと企画した。2台の馬車に乗ってでかけ、大きな音が聞こえる場所でペーペルコルンは昼食を取ろうという。みな不満であるが、しぶしぶ従う。自分の声さえ聞こえないところで氏は突然演説を始める。帰宅した夜、ハンスは起こされ、ペーペルコルンが毒物で自殺したことを知らされる。
(独裁者の末路。こういう死を迎えた独裁者は小説の前にも後にもいたなあ、とマンの先見性に驚く。途中、夫人に憧れる別の患者の繰り言をハンスは聞く。男の嫉妬を見事に分析している。)
(ショーシャ夫人はここで小説から退場。ハンスの恋は実らず、といって未練たらたらになるわけでもなく、中途半端なままおしまいになる。まことにモッブたるハンスは他人に無関心なのだ。その点では、市民社会にいたウェルテル(ゲーテの「若きウェルテルの悩み」)とは異なる。ウェルテルは社会や生活の中にいたが、療養所にいるハンスは自覚している通りに「社会から切り離されている」ため。)

「無感覚という名の悪魔」 ・・・ ベーレンス顧問官はハンスに「不機嫌でしょう」という。実際、ハンスの不機嫌は「無感覚という悪魔」によると自覚していた。すなわち「時間とはかかわりのない生活、心配も希望もない生活、沈滞していながら表面だけ忙しそうな放縦の生活、生命のない死んだ生活」をしているからである。他の患者も写真や切手収集やパズルなどの気晴らしをするしかない。なのでセテムブリーニが「バルカン半島の情勢が不穏」と報告してもいいかげんに聞き流すのである。ベーレンス顧問官は、ハンスの微熱は結核菌ではなく連鎖状球菌ではないかと検査することにした。ハンスの血液からは球菌が発見される。ワクチン療法で全快する可能性がでてきたが、それもハンスを不安にさせる。
(患者であることがうえのような「生活」を可能にしているのであるが、全快したとなると、仕事や活動などに参加することになり、責任や義務を果たさなければならないのだ。ハンスがトランプの一人遊びに熱中するのは、現実と向き合うことへの恐れからだろう。)

 

 トーマス・マンの「魔の山」は民主主義対ニヒリズムとみなすのは誤り。むしろ植民地政策を進める帝国主義国家におけるモッブの分析と独裁者の誕生を観察している。なので、この小説の最良の解説はハンナ・アーレントの「全体主義の起源」だ。あるいはアーレント全体主義の起源」を小説化したのが本書である(アーレントの本が後に出版された)。
 前のエントリーに書いたように、市民社会大衆社会に変容していくのだが、資本主義の競争から脱落するものが生まれる。たとえば、公民(シトワヤン)や市民(ブルジョア)のうち、資本主義の競争や国家の選抜からだつらくしたものたちがいる。彼らは国家にも共同体にも居場所を持たないモッブ(@アーレント)になる。
 モッブとしてのセテムブリーニとナフタが現状を批判し、新たな秩序の構成を提案する。その意見が広まり、現在に不満や不安を持つようになり、未来が今より衰退すると思うようになる。そこに現れるのが具体的な行動を示す扇動家。彼の独特な存在感や耳をそばだてさせる弁舌に人は惹かれて、彼の後を追いかけ、彼のマネをするようになる。療養所で起きた出来事はいずれ「低地」でも起こるだろう。独裁者への熱狂から覚めるには、現実によって敗北する経験が必要だ。おそらくハンスが向かい合うことになりそうな療養所からの退去の可能性は全体主義への熱狂を終わらせる契機になる。
 この流れはアーレントの分析に一致している。両方を参照すると、19世紀から20世紀半ばまでの帝国主義から全体主義に至る流れを理解できそう。


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2023/04/25 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第7章-2 サラエボの銃弾は友愛社会を壊し愛国心を目覚めさす 1924年に続く