odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

島田荘司「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(光文社文庫) ワトソンと漱石の手記が交互に出てくる編集。イギリス人のレイハラやマイクロアグレッションに漱石は悩まされる

 1901年、ロンドンの下宿屋で奇妙な事件が起こる。ある婦人が生き別れの弟を見つけ出し、同居を始めたが弟は変人で奇人になっていた。東洋から持ち帰った仏像や甲冑を室内に入れているが、決して他人に触れさせない。その上部屋の暖炉に火を入れないし、食事もほとんどとらない。一度、彼は錯乱を起こして暴れた挙句、眉のあたりを自分でナイフで傷つけてしまった。ついには、部屋には誰も入らなくしたのだが、ある時ボヤがおこる。窓とドアを内側から釘付けした部屋で見つかったのはミイラになった弟の姿。夫人から相談を受けていたホームズとワトソンは事件現場であっと驚く。


 のちにオカルトを伝導してまわったコナン・ドイルが考えそうな事件。でも作者は東洋モチーフを強調するために、夏目漱石を外挿した。彼もこの時代に倫敦に留学していたうえ、居住地を転々とし、次第に神経衰弱に見舞われていったのである。その理由が本人が残した(とされる)文書で明らかになった。そのうえ、ワトソン博士が残したこの事件の記録が見つかったのであり、双方を交互に収録する編集によってこの事件の成り行きがよくわかった。
 作中に登場する夏目漱石はイギリスのことはよくわからない。極東の日本はイギリスの植民地ではないので、倫敦には日本や東洋を体験した者はいない。世界システムの覇権国と、その周辺にある途上の国では、同じものを同じ視点で見ることはできないのだ。ホームズやワトソンらはナツメらを一等劣ったものとしてみるのであるし、漱石からするとイギリス人のレイシャルハラスメントやマイクロアグレッションは神経を衰弱させるに足る不愉快を常々押し付けてくるのである。日本や東洋に無知であることを恥じないし、イギリスの仕組みや習慣を善意で押し付けてくる。小池滋の解説がなければ、下宿屋の親父が日本人に向かって英語で書かれた「新聞を読めますかな」と尋ねるのが不愉快になる理由はわからない。この描写はとても微妙に書かれている。
 あまりに微妙なので、列島に適応している読者には、この小説はユーモア小説とみなされるだろう。ことにホームズの個性について。彼の思い込みの激しさと突然の躁状態など。彼に心酔するワトソンの筆からすると、天才の許容される好ましさになるが、情報を持たない漱石からすると全く別の姿に映る。そのうえ着やすくなると、ワトソン博士もホームズに手を焼いていると愚痴をこぼさせたりもする。こういうところはホームズの神格化を笑い飛ばす仕掛け。
 事件はホームズの短編にありそうなトリックを組み合わせたもの。漱石を外挿することで、短めの長編になりました。1984年初出。

 

島田荘司漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(光文社文庫 https://www.amazon.co.jp/dp/B06VVXPTW3