odd_hatchの読書ノート

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テッド・リカー「シャーロック・ホームズ 東洋の冒険」(光文社文庫) 失踪中のホームズはイギリスのスパイエージェントだった!?

 「最後の事件@回想」1891年から「空家の冒険@帰還」1894年の間、ホームズは失踪していた。のちにインド、ネパール、チベットなどを放浪していたことがわかる。その間に手掛けた事件をジョン・ワトソンは残さなかった。しかし、「テッド・リカー」が1960年代に下宿していた学生宿の奥さんは、彼を気に入り、1980年代に死亡した時、膨大な書付を渡した。それはなんとワトソンが住んでいた家の家主が残していたものだった。どうやら1905年ころからワトソンが閑の合間に書き残したものらしい。ホームズ死後半世紀が経過したとなると、発表を躊躇する理由はもうない。
 というわけで、ホームズが東洋にいた間の事件9つが紹介される(2003年刊行)。当然のことながらワトソンはいない。どうやって事件を記すことができたのか。

総督の秘書 ・・・ インド滞在中、大学の同級生が総督の秘書になっているのを知り、ホームズらは旧交を温める。その翌日、秘書は殺されていた。壁には血の文字(インドの悪神の名)が書かれ、首が斬り落とされていた。しかもその秘書の妻の言うことには、夫だと信じていた男は別人であったらしい。ホームズは二つの謎を解く。

ホジスンの幽霊 ・・・ 1894年5月。ネパールの提督(ここもイギリス植民地)が動揺している。ある夜、提督は屋敷のなかで幽霊を見て取り乱した。監視していたホームズは提督を保護する。さらにホームズは提督の娘から母がある男(暗殺者)に気を取られDVをするようになったと訴えられていた。現提督の前任者ホジスンの関係するらしい。チェスタトン狂った形」「飛び魚の歌」から着想を得たようなインド神秘譚と犯罪小説の融合。モリアーティ教授は死んだはずなのに、ホームズの周囲に見え隠れする。どうしてなのか、という謎も。

フランス人学者の事件 ・・・ 1893年カトマンズ近郊にあるヒンドゥー寺院の石碑と隠された財宝の謎に執着するフランス人学者が失踪した。サンスクリットによる暗号。

ラサへの使者 ・・・ 折からの帝国主義国家間の競争は激しさを増し、権力の空白地域であるチベットには各国のスパイや犯罪者がうようよしていた。鎖国を敷いているチベットに公務員を派遣するわけにはいかず、英国はホームズを派遣することにした。死んだという噂が立っているのが都合がよいのだ。今回の使命はマニングという先に潜伏した英国スパイの行方を探ること。調べるとそこかしこにいるのはスパイばかり。

アントン・フーラー事件 ・・・ モリアーティの前のライバルであるアントン・フーラーを逮捕するまでの顛末。ネパールでの冒険が後半にさしはさまれる。「恐怖の谷」のような物語。

スマトラの大ネズミ ・・・ 化石でしか見つからない大ネズミを発見した。小栗虫太郎「人外魔境」にでてきそうな巨大生物怪異譚。

トリンコマリの奇怪な事件 ・・・ 女王即位のためにセイロン(現スリランカ)で立派な真珠を見つけて贈ろうということになった。交渉に当たることになったホームズ、島に渡る。そこには仇敵の犯罪人が同じ真珠を狙っていた。

泥棒市場の殺人 ・・・ インド西海岸の町にいたとき、間借りしている退役兵士が殺され、金庫がこじ開けられようとしていた。ホームズはロンブローゾの犯罪学が嫌い。「(無実な貧民を犯罪者扱いするので)気分が悪くなる」。

ジャイサルメルの謎 ・・・ 旅の商人といっしょに沙漠を超えた後到着した町で、ダイヤの密輸団にとらわれる。終(つい)の棲家だとベーカー街221Bと同じ部屋を用意した。

 

 ホームズはイギリス国内ではブルジョアと官僚の支援を受けておもに上流階級を縦横無尽に行き来できる。でも、東洋ではそのような階級はないし、なにしろ言語が異なるから政府権力の後ろ盾で探偵はできない。とすると、ホームズが「探偵」をするには国の依頼を受けたエージェントないしスパイになるしかない。公式の役職や身分ではないから、国家や行政の支援を受けられない。ホームズは孤立した単独者になり、誰かの変名を名乗って(自我を抹消して)、誰でもないものになるしかない。
 そのような生き方ができるのは、19世紀末が西洋の帝国主義国家による植民地が世界中を覆っていたからだった。ホームズはインド、チベット、ネパール、セイロンなどを放浪するが、どの町に行っても英国人の集団がある。それこそ領事館から犯罪者集団まで。それほど英国人(に限らず西洋人全般)がいるのは、西洋諸国が植民地を経営しているから。そこにいる西洋人は地元のエリートも民衆も信頼・信用できないので、ホームズのような得体のしれない、しかし博識で多言語を操れる自国民のひとりものに頼むしかない。国家ぐるみの植民地経営の末端となることで、本国で定職を持たずどの組織にも所属しないものが「自立」した生活を得て、自己実現を図ることができるのだ。しかも本国の社会システムに組み込まれていないので、生活は常に緊張していて、冒険とロマンスが転がっている。ときに命をなくしかねないが、うまくやれば一攫千金も可能なハイリスク・ハイリターンを生きることができるのだ。
(その点で、本書のホームズは、本国に居場所をなくして植民地に渡航することを夢見る夏目漱石のキャラクターとおなじなのである。「それから」の代助「明暗」の小林らがホームズの同輩。それに加えて、夏目漱石自身も大日本帝国のエージェントになれる。英国留学時代の漱石が探偵になるミステリが書かれるゆえん。本書から冒険と探偵小説をなくすと、漱石の「満韓ところどころ」になる。堀田善衛「スフィンクス」にでてくる日本の軍探も同じ存在。)
 とまあ、英国流の探偵は東洋ではできないので、なるほど冒険小説になったのかと得心したところからこう考えた。
 著者は「中東およびアジアの言語学と歴史を専攻。インド、ネパール等に長期滞在し調査を行う」経歴の持ち主。なるほど土地勘があるからあれほど詳細な記述ができたのか(自分が唯一観光したことのあるジョグジャカルタの話を読んで納得)。でもアメリカの学者にありがちな何でも細かく記述するという性癖のせいか、とても冗長。ホームズと大使館員や領事たちとの会話をあれほど書き込む必要はないし、ホームズの回想を正確に再現することもない。おかげで冒険を楽しむまえに、へこたれてしまったのだ(その辺、スティーブンソンハガードストーカーなどを見習ってほしかった)。 

 

テッド・リカー「シャーロック・ホームズ 東洋の冒険」(光文社文庫

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