odd_hatchの読書ノート

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柳広司「吾輩はシャーロック・ホームズである」(角川文庫)

 夏目漱石はロンドン留学中に「猛烈の神経衰弱」にかかり、友人・知人はとても心配していた。その時、夏目は心理療法として通俗文学を読みふけり、おりからの流行小説である「シャーローク・ホームズ」譚に入れ込んだ。日常のふるまいから言葉使いまでホームズになり切ってしまう。困った心理療法の博士はドクター・ワトソンに面倒を見るように頼んだ。
 おりしも西洋随一の降霊術師が降霊会を催すことになり、ワトソンとナツメは招待された。そのホテルにはなんとアイリーン・アドラー嬢(@ボヘミアの醜聞)がいた。ワトソンは度肝を抜かれ、ナツメも茫然としている。部屋を真っ暗にした降霊会場では、どこからか声が聞こえ、笛や太鼓が鳴らされ、テーブルが揺れる。そのさなか、招待客の一人ロバート卿がテーブルの上にのぼったとき、降霊術師は崩れ落ちた。青酸カリを飲まされたための即死。みな手をつないでいてだれにも実行できなかったというのに。レストレイド警部が冷静に捜査を進めるも、動機と方法がわからない。たのみのホームズもスコットランドで難事件の捜査中。ワトソンはナツメのとんちんかんな捜査につきあいながら(なにしろホームズの真似はことごとく外れる)、ホームズに手紙を書く。ホームズから届く電報の質問に首をかしげながら。

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 夏目漱石が1900-1902年にロンドンに留学していたとき、犯罪に巻き込まれた、あるいは探偵になったという趣向はこれが初めてではない。自分のつたない記憶で言えば、島田や荒俣などが書いていた。なにしろこの時代はホームズに端を発する短編探偵小説の黄金時代。日英同盟ができるように日本が国際社会(とはいえ西洋限定)に参加してきたころ。ジャック・ザ・リパーのような犯罪趣味にここにもでてくるオカルト趣味はロンドンの流行り。複数の日本人留学生がいて小さな日本人社会もロンドンにあった。日本と西洋の出会いと衝撃を描くのに格好の時期であり、本邦では珍しい合理主義者の夏目漱石は探偵になる資格が十分にあった。(森鴎外も探偵になれそうだが、海渡英祐「ベルリン1888年」(講談社文庫)以外にあっただろうか。また歴史上の人物を探偵にするのは1990年以降にめだつ。南方熊楠、乱歩、北里柴三郎などが探偵になった。)
 もうひとつはホームズパロディの趣向。こちらはとても長い歴史をもっていて(それこそホームズの新作が発表される頃からあった)、その系譜上にある。
押川曠 編纂・翻訳「シャーロック・ホームズのライヴァルたち 1」(ハヤカワ文庫)
 時は1902年で「バスカヴィル家の犬」発表直後(作中でも言及される)で、「バスカヴィル家の犬」の構成を忠実に繰り返している。そのうえ日本人登場とあっては「バリツ」を言わないわけにはいかない(ナツメが暴漢に襲われたとき、ワトソンはバリツの妙技を期待するくらい)。ほかにも漱石やドイルの作品への言及がたくさんあるので、それぞれを読んでおいたほうがよい。
 読んで面白かったのは、漱石とワトソンが同じ舞台で出会うことでリアルとフィクションの壁を破っているところ。漱石も日本の偉人であり、歴史上の人物であるので、さほど違和はもたないが。それを日本人作家が書くところが面白い趣向。ホームズの原典のようにワトソンの一人称による語りであり、西洋人の目でナツメをみる。そうすると、日本文化の珍妙なところが見え、日本文化批判が生まれる。ここではワトソンの語りとナツメの述懐(実際の随筆や創作に依拠している)で、読者の住む日本が異化される。都筑道夫「三重露出」や山口雅也日本殺人事件 正続」と同じやり方。くわえてここにはワトソンに代表されるイギリス人の東洋人差別が露出している(作者が差別的であるわけではない)。この国の中にいると「世界が尊敬する日本」「日本スゴイ」ばかりが聞こえるが、実のところ国外では日本への関心はそれほどないし、非西洋人への蔑視や差別は西洋では根深い。それが小説の中で見えてくるのはよいこと。
 それは作中の事件でも関係していて、ドイルが行ったことのある南アフリカでのボーア戦争の正当性に対する疑義も描かれる。すなわち、イギリス人がナツメをみて微苦笑することと、南アフリカボーア人先住民族)を差別し弾圧することは一連の地続きの精神であることが明らかになるのだ。そのような相対化する視点は重要(ただ、この指摘は「贋作『坊ちゃん』殺人事件」ほど衝撃的ではない。なにしろこの国では、外国の民主化・差別問題は厳しく批判的であって、イギリスのボーア戦争の非正当性は常識的であるから。かわりに国内の問題には目をつむる)。
 この文化相対化の問題が重要だったので、ホームズの方法をそっくり模倣しているナツメの推理がことごとく外れていることからワトソンは、「ナツメが間違っているのなら、ホームズもまた間違っているのではあるまいか」と疑い、「闇の中に無限に墜落していく不安に襲われた(P242)」。この方法的懐疑は、ほぼ同時期のフッサール現象学ラッセルの数学の危機などとほぼ同時期で、趣旨は同じ。あいにく直後にホームズが解決を示したので、ワトソンはこの懐疑を推し進めるまではいかなかった。こういう理戦や論理の正しさがどこで保証されるのかという問題は表層の指摘だけで終わってしまった。
 さらに考えれば、犯人あてや謎解きの本格探偵小説ができる場所はどこかと疑いだす。科学捜査が進展し、防犯カメラで人々の動向が録画され、ネットで情報が公開拡散され、地域共同体や家族が解体している21世紀(というか1945年以降の都市や消費社会)で探偵小説は生き延びられない。本格探偵小説をやるには、過去にもどるか、異世界を設定するか、パスティーシュ・パロディにするか。消滅しつつあるジャンルはフィクショナルな仕掛けを持ち込まないと延命しない。
 あと、暗闇の降霊会での殺人は一時期魅力的なテーマだった。タルボット「魔の淵」泡坂妻夫「ヨギガンジーの妖術」のある短編を思い出す。そこでは怪音やポルターガイストなどをデバンキングすることが解決になったが、ここでは半分ほどでレストレイド警部があっさりと謎解き。オカルトそれ自体は謎ではなく、奇術や詐欺のひとつとみなされるようになったのだろうか。

 以上のように物語から離れて周辺のことばかり考えることになった。読者の思考を広げたのは物語にある力。でも、謎解きやユーモアはもう一つ。漱石パスティーシュなら、奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」をお薦め。

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