個人的な思い出から。最初に小遣いで買った文庫本は「路傍の石」と「二十四の瞳」だったが、大人びた文庫として本書を買ったのは12歳の中学一年生のとき。学校に持ちこんで読んでいた。あいにく級友で関心を示すものはなく、孤独な読書だった(担任の女性教師は「何読んでいるの」と声掛けをしてくれたが)。その時は「青春」の言葉に惹かれたはずであり(若者向けドラマに「青春」の文字がつくものが多かった)、しかし思春期にすら入っていない子供にはよくわからない文章をとりあえずトレースするしかなかった。まったくのところ背伸びの読書でしかなかったのだが、一冊を完読するという鍛錬にはなった。その数年後には「罪と罰」「赤と黒」「白鯨」などの二分冊にもなるような巨大な小説を完読することができたのだった。
以来、数十年を経ての再読。
高橋和巳は1931年生まれ-1971年没。享年39歳。この年齢は高年に入っている自分からすると十分に若い。自分にはいない息子の文章を読んでいる気分になり、当時の若者がどう考えていたかを懐かしむように、多少のやんちゃを大目に見るように感じていた。この世代は、中学校卒業までが戦争。戦場には行かないが、空襲の経験を持つ。高橋和巳も大阪の自宅を焼失し、疎開経験を持つ。この経歴は小田実、開高健、小松左京、筒井康隆らと共通する。その後、占領期間になり、大学在学中に独立が認められる。高橋和巳が特異なのは敗戦後の数年間に労働体験がないことか(書いていないだけかも)。以後京大に進学し、学究生活に入る。学生時代から創作を行っていて31歳に「非の器」が評価される。以後約8年間の創作活動と大学教師を行う。忙しすぎたのかがんで死亡。全集は約20巻あり、膨大な仕事を短期間にこなした。
こういう経歴を頭に入れてこのエッセイ集を読むと、高橋和巳の考え方の傾向が見えてくる。タイトルのエッセイを読むと、青春を自己主張の時期であり、それには意識の「核」が必要で痛切な体験の裏打ちがいるのだという。痛切な体験の例には戦争や復興があるが、1960年代の若者には「手向かう壁がない」と嘆き、青春の自己主張が困難になっているという(これは当時の一般的な見方。大江健三郎や石原慎太郎などにも共通)。この言い分を老年になって読むと、「正義」「善」「道徳」「倫理」について考えれば、痛切な体験がなくても意識の「核」はもてるのだがなあ、と思った。著者は大学勤めなので学生の「叛乱」はよく知っていても、たとえば公害や入管などの人権問題には言及がないので、彼らへの興味や共感はなかったのだろうなあ。そうすると、本書にでてくる家族、青春、恋愛、学生運動などの社会問題がマジョリティの立場で分析され、あれかこれかの二元論にまとめられてしまう。問題の具体的な現れに無知なことを糊塗するために観念論をもちだしている。具体的な問題を考える際に、西洋や中国の古典を引用しないでいられないのも、問題を詳しく知らないのではないかと思わせる。という具合に、著者の「青春論」は自分にはまったく刺さらなかった。
(21世紀にはさまざまな問題を持つ若者のレポやドキュメントなどが出ているので、そちらを参照したほうが良い。LGBTQ、エスニックマイノリティ、疾患、介護、借金、人権無視労働、貧困など切り取り方は多様。そこから日本や世界には「手向かう壁」がいまだに強固にそびえていることがわかる。)
著者の10代20代は男女とも禁欲が強いられ、接触や交際を禁止させられていたから、男女問題も抽象的になってしまう。そこに貧困からくる孤独癖や妄想癖などがあり、いっぽう大学に進学する知的エリート(当時だと大学進学率は10%あるかどうか)の自尊心もあって、特別な立場からの物言いになる。この人の考えや主張を一般的に広げるのは難しい。
途中に文学者の評論がある。岡倉天心、夏目漱石、三好達治、ドストエフスキーなど。どれも自分の読みとは違うので参考にはならない。夏目漱石のところだけメモ。
・漱石の小説はドイツの教養小説とちがい、発展小説。人間の決断で敗残の境遇に追いやられる(「それから」「門」「こころ」など)。
・日本の近代小説は、法科系エリートへの反感を内包している。「俗物」はブルジョアではなく、官僚的出世主義者や拝金主義者のこと(二葉亭や漱石、鴎外、それ以降の作家が批判、攻撃しているものがよくわかる指摘でした)。
・以下の指摘は不同意。
「後期の三部作(「彼岸過迄」「行人」「こころ」)になれば、いっそうの内面化が進み、重点は自我の確立と挫折の問題から、エゴイズムと罪の問題に移行する(P115)」
というが、「内面化」「自我」「エゴイズム」「罪(の認識)」は小説の価値や人間の評価を決める指標になるのか? 漱石の「罪」の問題はたいてい自己処罰にいたり、被害者の名誉侵害や心的外傷の回復は考慮されてない。それでいいのか。
「(漱石の小説の)なによりもよかったことは、恋愛や結婚といういわば永遠の主題を、近代的な人間がどのような愛によってつながれ、どのような自我によって相克するかという新しい視点によって蘇生させたことである。社会の矛盾も形成途次の近代の苦悩も、男女の仲という微妙な心理のあやに含蓄深く投影される(P113)」
というが、そうか? 漱石の小説の男女の仲はミソジニーによって女が抑圧されるばかりのものじゃない? 内面化が深まるほど、ミソジニーやレイシズムを持つようになるのが男のキャラの特長なんだけど。