大学教員をしながら大長編を書き、そこに大量の随筆・随想を書いていたから、高橋和巳は忙しすぎたのだよなあ。資料を読むこむ時間も、題材を深く考える時間もなくて、どのレポートも不十分なのだ。たとえば、「人間にとって」には「現代思想と文学」「戦後文学の思想」「戦後派の方法的実験」という3つの論文が収録されている。最初のはさまざまな文学批評の方法論の紹介、ふたつめは敗戦後に登場した日本語を使った作家や作品の紹介、最後のは戦後文学者のさまざまな実験(方法や主題など)を概観する。力作で勉強していると思うが、それぞれ筒井康隆「文学部唯野教授」、大江健三郎「同時代としての戦後」、中村光男「日本の現代文学」と比較できる。そうすると、高橋のそれはリサーチでも、論点の整理でも、話題の膨らませでも物足りない。
「孤立無援の思想」では、時事を題材にして戦争、非暴力運動、テロリズムなどを検討する。これも、19世紀以降の西洋思想家・哲学家の考えを切り貼りしたもの。たとえば、ヘーゲル、プラトン、フロイト、フッサール、サルトル、マルクスが登場し、中国古典の引用が並ぶ。その勤勉ぶりにはあっとうされるが、21世紀に読むと物足りない。上の暴力に関する議論をする際に、個人と国家だけが俎上にあげられ、多くの場合個人の意思や決意が問題にされるからだ。個人と国家の間にある公共空間や共和主義的な政治参加の考えがないのだよね。あるいは政治哲学への言及がまったくないのも。存在論や認識論だけで戦争やテロを語ろうとすると、抽象的になりすぎて、起きている事象を検討しなくなるんだよね。
それは、作家の考えが主体モデルにあるからだと思う。さまざまな行為の原因や理由は行為者の内面にあって、主体の決意によって行われる。それは翻すと、主体の内面や意識を変えることで、行為は変わるのだという解決を提示することになる。この説明は例えば差別やいじめの説明でよく使われる。差別やいじめをする者の意識を分析し、意識を変えさせれば差別やいじめをなくすことができるという。
あいにくのことながら、テロリストや兵士、自殺者の属性を調べ、経歴を調査したところで、なにも浮かび上がらない。説得や啓蒙で行動が変更することもない。別のアプローチのほうが行動変容には有効なのだ。
<参考エントリー>
アラン・B・クルーガー「テロの経済学」(東洋経済新報社)
2012/08/20 ポール・ポースト「戦争の経済学」(バジリコ)
当時の運動は組織が担うもので、どこかの組織に入ることで、市民や労働運動に参加することになった。そうすると組織の方針や綱領と自分の考えが一致しない時、どうするかを悩む。組織がある運動(デモや街宣など)で複数のスローガンを掲げるとき、一致できないものがあると参加するのをためらったりする。作家はそういう組織への違和をよく感じることがあったとみえる。たとえば京大教授会の立場と全共闘の立場。いずれの考えややり方に一致できないところが多々あるので、組織に参加しえない。しかし掲げるスローガンの一部には賛成できる。そこで個人である<この私>が分裂してしまう。組織化されたい/集団に参加した<この私>がそうできない。同士を集めるのも困難。でも何かしたい。というところから「孤立無援」が倫理的に大事な観念として現れる。
それをアーレントの「モッブ」やハイデガーの「ダス・マン(世人)」への類似で分析もできるが、むしろ運動の側が変わることによって「孤立無援」の感情は消えるのではないか。リンク先のエントリーは、高橋和巳のような組織集団の運動と、21世紀の個人の集まりの運動の違いをよく現していると思う。21世紀型のワンイシューで、その都度集まっては消える運動では、高橋が感じた「孤立無援」の悲愴で自慢気な気分はまず聞こえてこない。
2017/05/09 笠井潔/野間易通「3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs」(集英社新書)-1 2016年
2017/05/08 笠井潔/野間易通「3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs」(集英社新書)-2 2016年
1960年代にかかれた随筆、随想に文句を言っても仕方がない。作家のような考えは当時の主流であったのだ。生真面目でゆとりのない勤勉な秀才が時流の制約の中で書いた文章。そういう気持ちで読んだので、とくに記憶に残るところはなかった。
高橋和巳「孤立無援の思想」