odd_hatchの読書ノート

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高橋和巳「憂鬱なる党派 下」(新潮文庫)-2 ドストエフスキー「罪と罰」「悪霊」のパスティーシュ。日本を舞台にすることは困難。

  



 なんとも辛気臭い話がだらだらと続くなあと読んでいたが、下巻に入って疑問氷解。これはドストエフスキーの「罪と罰」を日本で再演しようとした小説なのだ。松本健一ドストエフスキーと日本人」に高橋和巳の名がなかったので、注意していなかった。松本の本は戦後文学と三島由紀夫までなので、大江健三郎高橋和巳は取り上げられていない。また新潮文庫の解説でも指摘はなかった(柴田翔)ので、半世紀近く思いつかなかった。
 多くの人が「罪と罰」との類似に気づかなかったのかというと、主人公の西村がラスコーリニコフとは全く異なっていて、超人思想や社会変革の意思を持っていないからだ。外見や言動からするとこの鈍重で真摯であるだけに滑稽な人物は「悪霊」のシャートフに似ているので、そちらに引っ張られるかも。まあ、広島から大阪に出てきた西村が学生時代の友人・知り合いに会いに行くのは、「悪霊」第2部でスタヴローギンとピョートルがペテルブルクで作り今は町に移り住んでいる組織のメンバーを一人ずつ訪問するのに似ている(もうひとつ「悪霊」との類似はあるがあとで指摘)。でも、「罪と罰」のほうを意識するのは、下巻に入って、西村が娼婦・千代から「神はいるのか」と問われるシーンがあるから。彼女は戦争で夫が徴兵され戦死した未亡人。大阪空襲で焼け出され行先がないので、娼婦宿を経営している婆さんの命令で売春している。まったく未来はなく、行く末も性病に罹患して死ぬか、交通事故で死ぬか、野垂れ死ぬか。その彼女が諦念の果てに、「神はいるのか(いるならなぜ貧民を救わないのか)」とインテリの西村に尋ねる。千代の境遇といいこの質問といい、ソーニャを模しているのは明らかだろう。西村はキリスト教や仏教の知識で彼女の問いに答えようとする。もちろん「神はいないが地獄はある」という西村の言葉に納得はしないし、千代も突っ込まない。ロシア人と違って、日本人は神を必要とはしていないので、この問答がうまくいくはずがないのだ。
(西村が例示するのはキリスト教や仏教なので、日本人の神意識ではつねに外からきたものが自意識に触れないのは当然。というのは近代以降の日本では神の代わりに天皇が意識の中心にいるから。宗教儀式と思わなくても宗教儀式を「自然」と取る日本人には「神はいるのか」の問いより「天皇のために死ぬことに価値はあるのか」のほうがささるのではないかな。)
 西村が、超人思想や社会変革の意思を持っていないのは、1950年代前半の大学闘争で消耗しつくしているから。すでに未来をもっていないし、人に明かせない「罪」を持っていて克服のしようがないと確信している。彼が救いたいと思うような〈他人〉もいない(家族をほおって逃げ出した上に、追いかけてきた妻を罵倒してしまう)。なので彼はマルメラードフになってとことんまで落ちるしかない。飲めない西村が日雇いのあとに焼酎で泥酔し、着の身着のままであるのも、マルメラードフを再演しているかのよう。なによりマルメラードフの死が自死であったかのように、西村の衰弱死も自己嫌悪のすえの自死にみえる。西村には看取る人も、葬儀を手配するものもいないので、より悲惨であるだろう。彼は「党派」からも共同体からも疎外されているのだ。
 この小説を読むと、日本でドストエフスキーパスティーシュを書くことがいかに困難で滑稽な結果になるかを思い知らされることになる。それは「死霊」ですら同じ結果になるので、もう土地の精神と宗教が全く違うというしかない。でも、西村の抱える罪はとても深刻。なるほどこの体験をして、その選択をしたとなると、たとえ戦時中のリソースがない中でのできごととはいえ、精神を崩壊させるに十分だろう。小説やアニメの『火垂るの墓」よりも厳しい現実が広島の爆心地にあった。これを抱えるのは厳しすぎる。
(そこに至って、西村はスタヴローギンのような秘密を抱えていたことを知る。解説の柴田翔がここを不問にしているのは不見識。)

 

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