odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高橋和巳「悲の器」(新潮文庫) 法科系エリートは労働はできても、生活ができない無能なミソジニー男性。本書は筒井康隆「文学部唯野教授」のシリアス版。

 正木典膳という中高年の法学者がいる。彼の法理論は世界的な名声を得ていて、都内の国立大学で法学部長を務めている。学内や学界だけでなく、折からの警職法改正問題で国会から参考人として招致されたりもしている。そのような栄達をした人物が突然スキャンダルにさらされた。すなわち、彼の妻は長年のがんを患った後に死去したのち、家政婦を雇っていた。恩師の配慮によりその娘と結婚することになったのだが、内縁状態だった家政婦から不法行為による損害賠償請求裁判を提起された。正木は名誉棄損裁判を起こして対抗する。また警職法改正に反対する学生運動は激しく、自治会から教授会や学部長への突き上げもある。構内で自治会役員等に囲まれた正木は学生からの罵声を名誉棄損に当たるとして提訴した。それは大学経営陣の逆鱗にふれ、退職を勧告され従わざるを得ない。こうしてわずか数か月の間に、保守派の知的エリートは転落するのである。

 作家の実質的なデビュー作(1962年)。これで文芸誌の新人賞を受賞したことで、30代前半の若者が勇躍文壇に登場したのである。ちょうど大江健三郎開高健石原慎太郎などもデビューした時期であり、戦場体験・兵士体験を持たない世代が現れたのだった。
 作家のテーマは知識人の転落。というか自ら不幸になるように選択し行動していく。名誉栄達を捨てるのみならず、金を失い、友人や知り合いを失い、孤独と貧困に陥る。自己嫌悪と高いプライドがせめぎあうも、みずから動いて生活の資を得ることをせず、身近な女性に頼ってしまう。
 そうなのだ。正木の法理論や知識人論、戦時中の転向などは古めかしいものであっても聴くべき内容はありそうだが、どうでもいいと思うのは、この男は知的労働ばかりをしていて、仕事も活動もせず、身の回りの世話いっさいができない。飯も掃除も洗濯も風呂もすべて他人まかせにしてきた。そこには妻や家政婦や婚約者への深い女性嫌悪差別意識があるからだ。あるひとがミソジニーを女性嫌いの女体好きといっていたが、正木がまさにそう。自分の鬱屈があると、相手の意向に関係なく肉体を求め、ふだんでも女性の臭いに敏感になる。男子学生が詰め寄ってきても困らないが、女子学生が「卑劣観」と罵倒するのを許さない。判断や好悪の選択が全部女性嫌悪と蔑視に基づいている。
 なので、この老人(たかが50代の半ばであるが心身ともに後期高齢者のそれ。まあこの時代の平均寿命は60歳に満たないから仕方がない)の周りから女性が姿を消し、生活が自堕落になる(飯を食わない、風呂に入らない、掃除をしない、酒を飲んでばかり)のに、全く憐憫を感じない。この男は生活を他人任せにしてきた理由を、寸刻を惜しんで勉強しないとライバルに抜かれるからと言い訳をしているが、同時代の欧米の知識人はそんなことをしていない。競争と他人の足の引っ張り合いに日本人が汲々とするのは、全体主義国家で軍隊式の競争が奨励されたのと、男性優位のホモソーシャル社会を作ってきたから。そこに適応しきって競争に勝ってきた男だから、ミソジニーは身に染まって抜けようがない。
 当時の法では、正木への損害賠償請求裁判は原告の訴えは退けられ、正木が提訴した他の裁判も勝訴するだろう。法は正木の罪を認定しない。しかし正木は普通の生活を送ることはできない。誰かを頼らないと、飯も風呂も身だしなみも洗濯もできない。生活者としては敗北しているのだ。
(妻は死に、婚約は解消され、娘は家を出ていき、兄弟姉妹とは絶縁している。大学や学界の知人ももう寄り付かない。肩書を失い、他人からいないものとされた彼はセルフネグレクトに落ち込んでいく。)

「さようなら、優しき生者たちよ。私はしょせん、あなたがたとは無縁な存在であった。」

 これが手記の最後の言葉。知的エリートであることだけがプライドであった男の負け惜しみだ。みっともないことこの上ない。

 

 高橋和巳「現代の青春」(旺文社文庫)所収のエッセイで、夏目漱石にからめて、こんなことを指摘している。すなわち、日本の近代小説は、法科系エリートへの反感を内包している。「俗物」はブルジョアではなく、官僚的出世主義者や拝金主義者のこと。そうすると、「悲の器」は二葉亭四迷からの近代小説の伝統にのっとって、法科系エリートへの反感と批判をテーマにしているのだろう。正木典膳は読者に共感していほしいキャラクターなのではなく、立法・行政・司法を牛耳る法科系エリートのダメさを体現している悪役キャラとして造形されているのだろう。なるほど正木は1930年代に治安維持法他によって思想弾圧を受けたことがあり、リベラル風な思想を持っているにしても(警職法改正に反対であるとか)、実質的には保身に汲々とする「俗物」そのものである。フッサールハイデガーらを読み、知識人論を滔々と述べることができても、人間への理解は浅く、貧者や弱者を尊重する視線はもっていない。作家はそういう観点から法科系エリートを批判したかったのだろう。
〈参考エントリー〉 正木典膳の半生はここにある日本の教養主義者の典型である。

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 でも、21世紀に読むと、そこに行く前の行動性向の問題が大きすぎて、作家が求める観念論風な批判も意味がないようにみえるのだ。(当然のことながら、1970年代にでた文庫本の解説にはミソジニーはまったくでてこない。)
 正木は批判さるべき悪役キャラとして造形されたとしよう。だが作家の他の小説の中心的な男性キャラはミソジニーの持ち主だったと、およそ半世紀前の読書を思い出す。高橋和巳より年上の福永武彦も強いミソジニーで21世紀には読めるものじゃなくなったが、高橋和巳も同じ。

 語り手が国立大学法学部学部長なので、勤務先の学部長室や大学構内が舞台になる。そこには他の教授や事務員のほか、学生もくる。構内でトラブルを起こした学生を呼びつけたりもする(そういえば、自分が大学自治会の幹部になっていたとき、何度か学部長に呼び出されて本書にでてくるようなどうでもいい話を聞かされたのを思い出した)。教授会も頻繁に開かれて、意見や立場が異なるものが婉曲表現で非難し、それに応酬したりする。次の学部長選や学長選が気になる。恩師の思惑で勤務先を決められたり、講座の若いものの就職先をあっせんしたり、係累の就職先を知り合いの企業経営者に頼んだりする。そこには自分の肩書や立場を利用したり、就職をあっせんしたものの成績によって自分の評価が変わったりする。なので、慎重に行先を決めないといけない。おのずと語り手は保守的になり、訓話ばかりをするようになる。自分の意見を押し付けるようになっていく。当然それはライバルとの軋轢になるので、そこで講座や仲間などを共同して対抗しないといけない。そういうホモソーシャル社会で起こる学内政治が描かれる。
 既読感があると思ったら、本書は筒井康隆「文学部唯野教授」のシリアス版なのであった。筒井が小説を発表すると、全国の教授や助教授などから「うちもそうだ」「もっとひどい」などの手紙が届いたという。高橋の小説にそういう投書はなかっただろうが、半世紀以上を経て読むと当時の常識は21世紀の異常。

 

高橋和巳「悲の器」

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