odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

佐伯泰英「万両ノ雪 居眠り磐音(二十三)決定版」(文春文庫) 時代小説は日本的な英雄を主人公にしたホームドラマ。テーマは現状維持で政権擁護。

 新聞広告でこのシリーズの宣伝が派手に行われているのを見てきたが、興味をひかれたことはない。なぜか手元に回ってきたので、読んでみた。このシリーズの23巻ということだが、その前がどうなっているかは知らない。

「磐音不在の江戸を島抜け一味が狙う!/坂崎磐音とおこんの帰りを待つ江戸の面々。/南町奉行所の年番与力・笹塚孫一は、6年前に苦い思いを味わわされることになった男が、島抜けしたとの報せを受ける。/ある予感を胸に、笹塚は男と因縁を持つ女性が営む団子屋をたずねるのだが……。/一方、磐音の友である品川柳次郎は人生の大きな転機を迎える。/磐音不在の窮地を笹塚は乗り越えることができるのか?/柳次郎は、想いを貫くことができるのか?/そして、一体いつ、磐音は帰着するのか⁉・」

books.bunshun.jp

 火事にかこつけて大金を盗み出した一味がいる。捜査は難航したがようやく捕え、島送りにしたものの、上記の次第。再び悪事を企んでいるらしく、事件の関係者を張ることにした。という警察小説かハードボイルドの時代小説版かとおもったが、なんのひねりもない。小説の半ばで一味はつかまり、盗まれた大金も見つかる。正月になると、道場破りがくる。主人公の剣豪はきちんとこらしめる。島抜けと道場破りには関係があるかと思ったら、なにもない。たんに時系列順に事件がおきただけ。
 犯罪小説としても剣豪小説としても中途半端だなあと思ったが、終盤でようやくわかった。これは茫洋としているが心と剣の腕はさえているといういかにも日本的な英雄を主人公にしたホームドラマなのだ。特に社会変革にも出世の意欲にもない平凡な男が、上流階級の一員になり、安定した事業の跡を継ぎ、家庭を持って子宝や下男下女にめぐまれる。上司や友人は礼儀正しい。安定を覆そうとする悪事を嫌悪するが権力のありかたに疑問はもたない。社会の正義や共通善には関心を持たない。トラブル解決の基準は自分らの生活を脅かすかあるいは公儀に背くか。自分らに無関係な悪事には手を出さないし、不正に憤ることもない。不幸な者を救うが、その後の生活には関心を持たない。貧しい者の支えあいに期待して、ほったらかし。経済的にも政治的にも安定した時期で変革はいらない。テーマは現状維持で政権擁護。それ以外のメッセージはない。まあ、ニヒルでない机龍之介で、革命意欲のない坂本龍馬なのだな。
 そういう小説。なので、コースが引かれた男の一生を年々の催事や家庭のトピックと一緒に書いていくことで、えんえんと続けられる。戦後日本の平均的な「幸福」とされる生活を江戸時代に投影した。つまりはマンガ「島耕作」シリーズの時代小説版。
 読んでびっくりしたのは、描写がないこと。ほとんど会話で物語が繋がれ、地の文を読まなくてもかまわない。なので、事件の影になにかあるとか、トリックが仕掛けられているとかがない。登場するキャラクターは時代劇ドラマのテンプレートのような面々。名前と職業だけで、どういう行動と会話をするかがわかってしまうものばかり。悪事はあっても、なぜ悪事を行ったのか追求しないし、心理の分析もない。悪事を行ったものは寄ってたかって懲らしめられ、主人公の仲間(インサイダー)にはいったものは裏切られないし現状に満足しきる。筋はあっても、深堀りがないのだな(過去の時代小説のあれこれを思い出して、嘆息)。
 小説を読むなら、俺はそこにある問題を考えたいし、発見したい。時代の風俗や社会を考える知識は作者の判断を得たい。そういうものがまったくないので、俺には不要なエンターテインメント。(テキストで書かれているから、二時間ドラマをみるよりはまだましか。)
 

東野圭吾「虚ろな十字架」(光文社) 犯罪者を更生できない司法制度を「虚ろな十字架」と呼ぶのだが、俺に言わせれば虚ろなのは本書のほう

 サマリーをしっかり書く気にならないので、wikiを参照。あいにく出版社の紹介ページに書かれたものは雑すぎて引用に堪えない。

「11年前、娘を強盗に殺害された中原道正は、当時の担当刑事だった佐山の訪問を受け、今度は離婚した元妻の小夜子までも刺殺されてしまったことを知る。小夜子とは、娘殺害の犯人の蛭川が死刑になることだけを望んで、裁判をともに戦った過去があった。犯人の死刑を望まない被害者家族はいないが、中原も小夜子も、「たとえ犯人が死刑になろうとも娘は戻らない」という虚しい事実に直面したのだった。」

ja.wikipedia.org

 これもよくわからないな。離婚した妻が刺殺された。刑事によってその事実を知らされた元夫は、容疑をかけられていることを知り、のちに疑いが晴れたのであるが、事件を調査する。なんとなれば妻はライターとして犯罪事件を取材していたから。妻の強い主張である反・死刑廃止論がどこからでたかを知りたいため。
 もう一つの記述は、中年の小児科医。富士山の樹海で自殺しようとしていた女性を助け、彼女を妻にした。妻の父が金欲しさで殺害したと自首していたのだった。そして中原道正は小児科医の謝罪の手紙をもって、彼に会うことにする。
 という具合に、行きずりの突発的な事件と思われていたのが、関係者の幾重にも錯綜した過去のできごとにおいて事件の様相が変わっていく。そこに巻き込まれた二人の男の不安や疑惑、恐怖などを追体験するサスペンスもの。あいにく彼らの心理は単純でうすっぺらいので、なかなか感情移入できない。アイリッシュやブラウンのようなセンチメンタルで的確な描写と、説明的でないリアルな会話があればなあ。そのうえ周辺人物のうち、女性の扱いがどうにも今日的でない。息子が私生児を持つ女性と結婚したのを弾劾する母、母と兄の間の確執を冷淡にみまもる妹、アル中の父を持つ小心者の妻、反・死刑廃止論をたてに他人のプライベートな事情に踏み込むライター。彼女らは問題にぶつかっても解決するのではなく、ないものにしようと画策するばかり。そういう受け身で小市民的なキャラばかり。これではねえ。過去の事件のありさまといい、2014年刊行なのに、昭和の探偵小説を読んでいるようでしたよ。
 反・死刑廃止論は21世紀の日本でも強い主張になっている。死刑廃止に反対するというよりも、犯罪者に厳罰を科せというのがその中身。理由は、殺人に対して死刑を課せないのでは被害者感情に納得しない、日本の司法制度では犯罪者は(ほとんど)更生しないというものらしい。ようするに私的制裁や報復を司法に認めさせよというのかな。これはめちゃくちゃな議論であって、被害者感情の救済と犯罪者の厳罰は別だし、犯罪者の更生が少ないから厳罰に処せというのも無関係な話、なにしろ死刑があることは犯罪の減少にはならない(むしろ国家による自殺幇助を行わさせたいために他人を殺害するという倒錯まであるくらい)。本書にかかれた論点程度では反・死刑廃止論には加担できないね。その種の私的制裁や報復を行うことの問題はロック「市民政府論」で指摘されているので、それくらいは参照するように。
 本書で知る恐怖は、犯罪に巻き込まれることではなく、犯罪を使ったデマや差別が蔓延していること、その標的になったとき個人の力では対応できないこと。小児科医の家族は係累に犯罪者がでたことがうわさになって、住民や職場から差別を受けるようになる。ある高校生カップルはに避妊に失敗して出産にいたるが家庭にも学校にもいえない。これは社会や集団の側にある問題なのだが、この国では少数者への攻撃と差別として現れる。このストーリーでは社会の問題としてとらえることができるのに、そうしない。たぶん論拠のあいまいな反・死刑廃止論に引きずられて、明らかになった「真相」においてその論が成立するかという疑問を提示することに熱中したため。なるほど、「真相」に対して佐代子の反・死刑廃止論は適用できないようだが、作者はあいまいに提示するにとどめる。そこは重大な問題ではないでしょ。作中では犯罪者を更生できない司法制度を「虚ろな十字架」と呼ぶのだが、俺に言わせれば虚ろなのは本書のほう。
(なので、俺は、本書が私的制裁や報復を助長するように思えて良い気分にならなかった。犯罪加害者の更生や被害者の救済にはつながらないうえ、小説が無視したバッシングやヘイトクライム、差別を放置することになる。社会の分断を促進して社会を不安定にし、管理と監視のコストを引き上げる。加えて、上の男性優位主義もあるし、作者の書くものは21世紀的ではないなあ。本書はベストセラーだったそうで(全然気づかなかった)、それはこの国の気分や精神をよく表していると思うよ。嘆息。)

 

東野圭吾「人魚の眠る家」(幻冬舎文庫) 身体に対する決定権をだれが持つかというテーマがありそうだが、そこまで到達しないまま事件は終わった

 医療用機械を製造しているメーカーの社長一家。円満な夫婦に見えたが、亀裂がある。離婚しようかという話のさなか、娘4歳がプールでおぼれ脳死と判定された。脳死を認められない妻は、娘を引き取って介護をし、社長は自社の開発チームの一部を娘の機能回復をめざす機器の開発にあてた。それから4年、娘は人魚のように美しかった(しかし目を開けない)。でも、21世紀の技術を結集しても身体に損傷は加わっていく。夫婦は娘の二度目の死を受け入れることができるか・・・
 2015年に書かれた医療SF小説。SFにあたるのは、機能回復の技術にあたる部分。おもに微弱な神経電流を検出して、運動刺激に変換すること。そうすると、瞼の痙攣や口もとの反応が起こり、さらには指や腕の一部を動かすことができるようになる。これらは開発中なのだろう。詳しい説明が出てくるのは作者が取材した結果だろう。(その代わり、食事の摂取、自発呼吸が無い状態での呼吸、血流維持などがごっそり説明から抜けた。おかげで、俺はこの夫婦による支援では残念ながら早晩アポトーシスが始まるはずと思って、楽しんで読むことができなかった。)
 脳死の判定基準は1980年代にできて、いまでも踏襲。ここではそのような「死」を認めない人がいた場合、どこまで死体を家族の専権事項にすることができるか。上に言ったように、現状では起こりえない事態ではあるが、思考実験としてはありうる。でも、この問いはとても日本的。俺の知識ではせいぜい西洋と比較するしかないのだが、日本では身体をとても重く見る。事故が起きた時に、死体を回収することはとても大事。2011年に起きた震災の行方不明者の遺体捜索は10年後にも行われている。WW2の戦死者他の遺骨の収集にも熱心。大規模事故でも死体の回収と分別を行い、遺族に返すことをとても熱心に行う。でも、西洋ではそこまで肉体に固執しない。むしろ魂の行方を気にする。そういう身体の死生観違いがあるので、脳死を死と認めない人々は身体のありかたにとても執着する。
 もうひとつおもうのは、身体に対する決定権をだれが持つかという問題。ジョン・ロックの「市民政府論」で驚いたのは、彼は精神・魂が身体を所有していて、身体をどうするかの決定は精神にあるとする。だから、手術などの身体介入は自己決定することが重要であるし、マルクスの労働価値説の根拠にもなる。でも、本書の状況では身体の決定を家族、ことに父と母が行う。ここは強烈な違和感。もちろん、死者が生前に意思表示をしていないとか、未成年で判断力が不足しているから親権が重要であるとかの事情があることは承知。それでもなお、身体をどうするかの決定が他人に任されるのには違和感(論理的に説明できない不快感)がある。
 というような民俗学形而上学の議論を深めることができそうだが、あいにくここでは情緒的な反応でおしまい。まあ、上に言ったようなアポトーシスが遅延して起きたので、夫婦は娘の身体をいつまでも所有することはしない。でもそのきっかけが「人魚」の娘がいるということで息子がいじめられていることを知ったから。いずれにしても夫婦自身が考え抜いて決断したのではなく、世間や周辺の人々の反応に合わせたのだし、決断を先送りしているうちに当の身体が限界を迎えてしまった。ただ4年間も死者と向き合うことは、死に対する夫婦の気持ち(否定、逡巡、懐疑、怒りなど)を整理し落ち着かせるには十分であった。
 こういう結末の付け方をみてもとても日本的。そういえばドナーや家族が臓器の行き先を気にしたり、どこかで一部が「生きている」と考えるところも日本的だなあ。
 読んでいる間はたいして感心しなかったが(エドガー・A・ポー「使いきった男」海野十三「俘囚」のような人体改変ホラーを予想していた)、感想を書くのは楽しかった。本書が書かなかったことを補足することになったからだろう。
<参考エントリー> 日本初の臓器移植手術を取材したフィクション
渡辺淳一「白い宴」(角川文庫)
 娘を生かしておこうとする妻は臓器移植との関係を考える。飛ばし読みに近かったので、妻の懐疑がどこにあるかはよく覚えていないが、外部から身体に介入し改変するという点では「人魚」にやっていることと臓器移植に差はない。問題は上にも書いたけど、介入の決定権者にあると思う。

   

 映画になっているみたい。