odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

東野圭吾「虚ろな十字架」(光文社) 犯罪者を更生できない司法制度を「虚ろな十字架」と呼ぶのだが、俺に言わせれば虚ろなのは本書のほう

 サマリーをしっかり書く気にならないので、wikiを参照。あいにく出版社の紹介ページに書かれたものは雑すぎて引用に堪えない。

「11年前、娘を強盗に殺害された中原道正は、当時の担当刑事だった佐山の訪問を受け、今度は離婚した元妻の小夜子までも刺殺されてしまったことを知る。小夜子とは、娘殺害の犯人の蛭川が死刑になることだけを望んで、裁判をともに戦った過去があった。犯人の死刑を望まない被害者家族はいないが、中原も小夜子も、「たとえ犯人が死刑になろうとも娘は戻らない」という虚しい事実に直面したのだった。」

ja.wikipedia.org

 これもよくわからないな。離婚した妻が刺殺された。刑事によってその事実を知らされた元夫は、容疑をかけられていることを知り、のちに疑いが晴れたのであるが、事件を調査する。なんとなれば妻はライターとして犯罪事件を取材していたから。妻の強い主張である反・死刑廃止論がどこからでたかを知りたいため。
 もう一つの記述は、中年の小児科医。富士山の樹海で自殺しようとしていた女性を助け、彼女を妻にした。妻の父が金欲しさで殺害したと自首していたのだった。そして中原道正は小児科医の謝罪の手紙をもって、彼に会うことにする。
 という具合に、行きずりの突発的な事件と思われていたのが、関係者の幾重にも錯綜した過去のできごとにおいて事件の様相が変わっていく。そこに巻き込まれた二人の男の不安や疑惑、恐怖などを追体験するサスペンスもの。あいにく彼らの心理は単純でうすっぺらいので、なかなか感情移入できない。アイリッシュやブラウンのようなセンチメンタルで的確な描写と、説明的でないリアルな会話があればなあ。そのうえ周辺人物のうち、女性の扱いがどうにも今日的でない。息子が私生児を持つ女性と結婚したのを弾劾する母、母と兄の間の確執を冷淡にみまもる妹、アル中の父を持つ小心者の妻、反・死刑廃止論をたてに他人のプライベートな事情に踏み込むライター。彼女らは問題にぶつかっても解決するのではなく、ないものにしようと画策するばかり。そういう受け身で小市民的なキャラばかり。これではねえ。過去の事件のありさまといい、2014年刊行なのに、昭和の探偵小説を読んでいるようでしたよ。
 反・死刑廃止論は21世紀の日本でも強い主張になっている。死刑廃止に反対するというよりも、犯罪者に厳罰を科せというのがその中身。理由は、殺人に対して死刑を課せないのでは被害者感情に納得しない、日本の司法制度では犯罪者は(ほとんど)更生しないというものらしい。ようするに私的制裁や報復を司法に認めさせよというのかな。これはめちゃくちゃな議論であって、被害者感情の救済と犯罪者の厳罰は別だし、犯罪者の更生が少ないから厳罰に処せというのも無関係な話、なにしろ死刑があることは犯罪の減少にはならない(むしろ国家による自殺幇助を行わさせたいために他人を殺害するという倒錯まであるくらい)。本書にかかれた論点程度では反・死刑廃止論には加担できないね。その種の私的制裁や報復を行うことの問題はロック「市民政府論」で指摘されているので、それくらいは参照するように。
 本書で知る恐怖は、犯罪に巻き込まれることではなく、犯罪を使ったデマや差別が蔓延していること、その標的になったとき個人の力では対応できないこと。小児科医の家族は係累に犯罪者がでたことがうわさになって、住民や職場から差別を受けるようになる。ある高校生カップルはに避妊に失敗して出産にいたるが家庭にも学校にもいえない。これは社会や集団の側にある問題なのだが、この国では少数者への攻撃と差別として現れる。このストーリーでは社会の問題としてとらえることができるのに、そうしない。たぶん論拠のあいまいな反・死刑廃止論に引きずられて、明らかになった「真相」においてその論が成立するかという疑問を提示することに熱中したため。なるほど、「真相」に対して佐代子の反・死刑廃止論は適用できないようだが、作者はあいまいに提示するにとどめる。そこは重大な問題ではないでしょ。作中では犯罪者を更生できない司法制度を「虚ろな十字架」と呼ぶのだが、俺に言わせれば虚ろなのは本書のほう。
(なので、俺は、本書が私的制裁や報復を助長するように思えて良い気分にならなかった。犯罪加害者の更生や被害者の救済にはつながらないうえ、小説が無視したバッシングやヘイトクライム、差別を放置することになる。社会の分断を促進して社会を不安定にし、管理と監視のコストを引き上げる。加えて、上の男性優位主義もあるし、作者の書くものは21世紀的ではないなあ。本書はベストセラーだったそうで(全然気づかなかった)、それはこの国の気分や精神をよく表していると思うよ。嘆息。)