odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

渡辺淳一「白い宴」(角川文庫) この国の最初の心臓移植手術をモデルにした小説。バイオエティクスのない時代なので問題は深堀されていない。

 1968年8月8日にこの国の最初の心臓移植手術が行われた。その日は、東海村の実験用原子炉が稼働を開始した日だった。ガキだったので、これらの出来事は未来を明るくすると信じていた。のちに、いずれもそう単純ではない、多くの人の批判にさらされた忌まわしい、呪わしいできごととされた。
 さて、この小説は心臓移植手術が行わなれた北海道医科大学の医師であった著者が書いた小説。あとがきによると、同人誌をだしていて、それまでに5冊の本を出版していたという。忙しかっただろうに、タフだなあ。この長編をきっかけに医師をやめ、東京にでて作家生活にはいった。その後の成功はよく知られている。

 手術を行った現場に近く、また医療の現場にも長かったこともあって、医療の説明は詳細。たぶん誤りは少ないだろう。とはいえ、まだまだ素人の筆であって、この「事件」や「問題」をしっかり摘出することはできていない。手術の関係者は、執刀医、ドナーの救命医、ドナーの家族、レシピアントの家族、とだいたい4つ立場にわけてもよいのだろうが、そのいずれにもフォーカスしていないので、彼らの心理や苦悩はとおりいっぺん。執刀医の苦悩も、救命医の疑惑も、ドナーやレシピアントの家族の困惑と混乱ももっとかきこめるだろうに。とりあえずの主人公は新聞記者だろうが、これも特ダネを追いかけるサラリーマンであって、問題を把握しているわけではない(しかもネタ取りのために同級生の看護婦に接近して同棲するみたいな話まであってじゃまだった)。だれにとっても他人ごと。執刀医のワンマンぶりとマスコミの取材の迷惑だけが印象に残るだけだった。
 1980年代に「脳死」問題がでてきたときさまざまな論点があげられた。それは1968年当時において把握している人はいたようだが、その整理もない。深い考察もない。どうにか作者の主張を探るとしても、心臓移植と脳死についても、「薄気味悪い」というくらい。何も言っていないに等しい。
 こういうところがあって、医療小説としては遠藤周作「海と毒薬」山崎豊子白い巨塔」、ソルジェニツィン「ガン病棟」にはるかに劣る出来栄え。当時の雰囲気を感じるくらいの意義しかなかった。
 さて、重篤な弁膜症の若い患者がいて、通常の手術(弁の取り換え)では助からないと思われていた。そこに、たまたま血液型O型(血液型不適合がでにくい)の脳死患者が搬送された。そこで、弁膜症患者の治療医が家族の了解をとって、心臓移植を実行したというのが、この「事件」。批判は
1.弁膜症患者の最適な医療は心臓移植であったかが疑問。弁の交換で対応可能だったのではないか。
2.脳死患者の判定が不十分だったのではないか。
というあたり。この小説を見ると、ドナーの家族の了解を取る手続きやレシピアントとその家族への説明も、十分であるとは思えないというのも追加できる。
 ここでは脳死と臓器移植の適否についてはおいておくとして(自分は脳死判定された友人がいた)、いくつか周辺事項で気になったところをあげてみる。
・他の治療法のあるなかから心臓移植を選んだこと、関係者への説明、執刀、記者会見など、「事件」を推進したのが教授という一個人であったことに注目。昔の講座制では教授の権限が非常に強かったので(「白い巨塔」が参考になる、かな)、このような父権主義で運営され、個人の判断で集団の行動が決まることがあった。人の生死にかかわること、最新技術(しかも成功例が極端に少ない)を採用するに当たり、個人の判断で決定するのは危険。
・その反面、「事件」の推移にあたり、周囲の講座は非常に冷淡。科学的な危惧を感じたり、手術の決断までの経緯に疑義をもったり、スタンドプレイに怒ったりといろいろな感情があっただろうが、その無関心・冷淡ぶりはこの国らしい。レシピアントが亡くなってから批判が噴出したわけだが、事が終えてからの批判というのもこの国の組織にありがち。
・「科学の発展のため」というのが手術を決意する理由のひとつとされている。これは科学のインサイダーには納得できるかもしれないが、職業科学者以外には通用しない概念だなあ、という感想。
 これがきっかけになったかどうかはわからないが、治療方針を集団で検討するとか、治療には多くの関係者が役割を分担して執刀医や主治医の負担を減らすとか、ドナーやレシピアント及びその家族への説明責任を果たしたり、セカンドオピニオンの権限を患者にもたせたり、と多くの改善がある。要は、ことを一人で抱えないで、チームで対応し、バックアップと心理ケアを十分に持ちましょうということになった。役割と責任がはっきりし、負担を減らして、余裕をもって事に当たるというわけで、そういう変化は好ましい。

  
 2014年4月30日、著者の渡辺淳一氏死去。享年80歳。