odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

カーター・ディクスン「赤い鎧戸の影で」(ハヤカワ文庫) 植民地で若い男女がしでかすドタバタ騒ぎ。老いたH・Mは見守るだけ。

 お忍びで海外休暇中のH・Mがタンジールに到着すると、のぼりやら歓声やらで派手な出向かいを受ける。そのまま現地の警察に行くと、神出鬼没の怪盗を捕まえてくれとの要請。ブリティッシュ・ビューティのおきゃんぴー(死語!)な娘が私設秘書になってくれるというので、文句を言いながらも捜査開始。しかし、イスラム文化のこの町はH・Mとは合わなくて、することなすことドタバタ騒ぎ。一方、私設秘書は現地警察の素敵な警部とアバンチュールを、領事館の若い夫婦は暑い新婚生活を、とふたつのロマンスが同時進行。怪盗がダイヤを盗む予告をした宝石店では衆人監視の状況で怪盗と鉄の箱が消失するという不可能事件が起こる。さてH・Mの推理は? という具合。
 カーの作にしては珍しいことが二つある。ひとつは殺人事件が現れないこと。もうひとつは舞台が異郷の町であるということ。カーをカーたらしめる要素(怪奇趣味、密室殺人)は後景に退いている分、もうひとつのカーらしさ(ドタバタ騒ぎ、不可能犯罪)を楽しむということになる。さらには舞台がモロッコのタンジールということで、映画「カサブランカ」の雰囲気をたのしむということになる。イスラム預言者あるいは修行者に変装したH・Mのうさんくささとドタバタは面白かった。
 1952年作。このときには「鉄のカーテン」演説の後で、冷戦時代に突入している(アメリカではマッカーシーズムの最盛期)。物語にはこの背景が埋め込まれていて、ときどきあらわになるときがある。著者の本心なのかどうかは知らないが、H・Mは共産党あるいは共産主義が嫌いで、そのことを公言している。チェスタトンも同じだったから、作者の思想なのかもしれない。
 1930年代後半のカーの作品から目立ったことだが、主人公は若い男女、探偵は高齢になっていて、若い連中の冒険に文句をいいながらも力を貸していくという役回りになっている。そこで現れるのは、世代による世界観とモラルの違いだ。かつては高齢の探偵の世界観やモラルは若者たちを共感あるいは屈服させるところにあった(「帽子収拾狂事件」「アラビアン・ナイトの殺人」)。そこからさらに10年がたち、若者が「モボ」「モガ」から「アプレゲール」になると、世界観やモラルは決定的に異なってきて、もはや探偵の説教に説得されることはない。著者が「現代」を書こうとするほど、自身やその投影である探偵が時代遅れになっていく。
 たぶん、カーにとってはミステリの形式やトリックの枯渇が問題になるのではなく、人物たちが自身のモラルと合わなくなってきたことが作家としての危機になったのだろう。自分が「現代」を書けない、それは時代と自分の齟齬になる。ならば、自分とぴったり合った時代で物語、ミステリを書こうではないか。そんな心のあり方がこの後にたくさん書かれることになる歴史物に結実した。そんな物語をつくりあげることができそうだ。