odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ディクスン・カー「帽子収集狂事件」(創元推理文庫)

夜霧たちこめるロンドン塔逆賊門の階段で、シルクハットをかぶった男の死体が発見され、いっぽうロンドン市内には帽子収集狂が跳梁して、帽子盗難の被害が続出する。終始、帽子の謎につきまとわれたこの事件は、不可能興味において極端をねらう作家カーが、密室以上のトリックを創案して全世界の読者をうならせた代表的な傑作である。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488118044

 昭和30-40年代の英米文学の泰斗、田中西二郎の翻訳。メルヴィル「白鯨」を訳すほどの力量のある人なので、他のカーの翻訳よりも高貴溢れる翻訳。この重厚さと内容がマッチしていて、これはカーの傑作だろう。
 事件はおよそ3つの方向で現れる。ひとつは、ポオの未発表探偵小説の草稿の行方。新発見の草稿(探偵小説好きなら絶対に読みたいと思うだろう)が紛失してしまった。どこに隠されたのか。次は、連続する帽子盗難事件。帽子が頻繁に盗まれるとともに、思いがけないところで発見される。たとえば、騎馬像の馬に法曹界の鬘がかぶさっているなど。実害はないが、トリッキーないたずらが起こる理由は? 3つ目がロンドン塔で見つかった死体。中世の石弓で刺殺されているというが不可解な上、彼の殺害時刻には死体発見現場には誰もいなかった。なにしろ深い霧が立ち込めていて、10m先ですら見えなくなるような陰鬱な冬の出来事なのだ。さらに、彼はとくに重要な人物とは思われていない。駆け出しでしかも才能のない新聞記者なのだから。
 1933年の作になる。たぶん10番目くらいの長編になるはずだが、ここにおいてカーのつむぎだす文章はますます彩りを加える。それに伴い、分量が増え、従来作の1.5倍くらいの長さになった。たぶんここから数年間はカーの奇跡の年であるはず。
 とはいえ、近来の小説作法からするとテンポののろいこと。なにしろ、舞台はほとんど変わらないのだから。フェル博士に加えハドリー警視、ランポール君が一室に腰をすえ、関係者の訊問を始めると、そこから70ページくらいはその部屋から出ないのだから。一人の関係者が現れると、1章が当てられ、饒舌な会話が続く。事件現場の描写は淡白なかわりに、彼らの饒舌なおしゃべりによって、事件の様相がだんだん明らかになっていく。こういう書き方はカー独自のものであって、ヴァン・ダインやクイーンのアメリカ作家にはみられない。これをとことん追求すると「アラビアンナイトの殺人」になってしまうのだが。
・モラルに関して興味深いことがあって、ラストにおいて博士たちは真犯人を検挙することを放棄するのだ。クイーンやヴァン・ダインの作にあるような法の届かない犯罪者を独断で断罪することとは正反対の決断。
・ロマンスを探偵小説に持ち込んで、いい具合の味付けになっている。