odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ジョン・ディクスン・カー「バトラー弁護に立つ」(ハヤカワポケットミステリ)

白い幽霊のような霧が、リンカンズ・イン・フィールズの辺りに立ち込めていた。十一月も下旬の午後四時半、空も町も、もう暗かった。 四階にあるプランティス弁護士事務所はひどく暗くてがらんとしていた。奥の事務所だけに明りがついていて、副所長のヒューが許婚のヘレンに笑われていた。『あなたはどう見たって冒険向きよ。こんな退屈な法律事務所にいるよりはね。霧の中から、外国訛りの皮膚の黒い不思議な人物が現れて《私はトルコの王です。ぜひご相談に乗っていただきたくて参上しました》って言うの……』 『ばかな、そんなことが現代にあってたまるもんか!』 ヒューがそう言った時だった。廊下に通じるドアが前触れなしにあいて、トルコ帽にアストラカンのオーヴァーを着た東洋人が、霧の中から現われ、妙な話を始めた。『私は、トルコのアーブーというものですが……わたしの災難のすべては、あなたの手袋が原因です。助けてくれないと殺人が起きます……』 そして不吉な予言どおり、アーブーは、ヒューとヘレンに連れていかれた他に誰もいないはず部屋で、胸を短刀で一突きされて死んでいたのだ! 名法廷弁護士パトリック・バトラーが不可能犯罪に挑む〈密室殺人の巨匠〉カー中期の傑作!
ミステリー推理小説データベース Aga-Search


 たいぼうのカーの密室殺人事件!だから「プレーグコート」「赤後家」「三つの棺」を期待しよう。と予想すると、肩すかしをくらうことになる。内容はヒッチコックの巻き込まれ型サスペンスなのだから。いや、むしろ東宝や日活の昭和30年代アクション映画に近いか。同時期の岡本喜八組でキャストを考えると、バトラー(平田昭彦)、ヒュー(加山雄三)、ヘレン(水野久美)、パム(團玲子)、ジム(中丸忠雄)、骨董屋店主(砂塚秀夫)でどうか(この配役は3分の1を読んだところで思いついたのだが、ぴったりだったな。いやこれだと伊藤雄之助中谷一郎の出番がないぞ。それに配役で犯人がわかってしまう)。
 系譜としては「パンチとジュディ」「赤い鎧戸の影で」に連なる若い男女のサスペンス&コメディ。バトラーという探偵役がどうにもきざで格好つけで、陰気な雰囲気を演出していなバンコランみたい。とっても興味深いのは、バトラーは女好きだということ。ヒューが苦境を訴えても、自分のデートのほうを優先するとかね。そのうちヒューの彼女に興味を持つようになって、口説き始める。ヒューもそのころにはバトラーの彼女にちょっかいをだすからあいこか。最後には、それぞれの彼女を取り替えて丸く収まるというのがおもしろい。フェル博士もメルヴェル卿もバンコランも人嫌いだし、マーチ大佐は個人の感情よりも職務を優先するという堅物だし。こんな「人間的な」探偵はカーには珍しい。バトラーは知恵を大衆に宣託するものではないのだ、利益のために知恵を売るというわけだ。彼のキャラクターになじめるかどうかが問題になりそう。
 そうそう、ヒューがパムの家に泊まることになった時、深夜だったから明かりを求めてそこらのスイッチを押すたびに、大音響の音楽が鳴るというシーン。思いきり笑えました。マルクス兄弟の映画みたいだった。
 あと中盤でロンドン塔が舞台になる。カーはロンドン塔がすきなんだな(「帽子収集狂事件」)。1956年作。