odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ディクスン・カー「テニスコートの謎」(創元推理文庫) 夕立ちが降った後の足跡のない殺人。杖やステッキを持つ探偵はアルレッキーノ(ハーレクイン)。

ブレンダは愕然とした。雨上がりのテニスコートには被害者と発見者である自分自身の足跡しか残ってはいなかったのだ。犯人にされることを恐れた彼女は、友人と共にこの事実を隠し通して切り抜けようとするのだが……。主人公達と犯人と警察の三つ巴の混乱の中、第二の不可能犯罪が発生。フェル博士はこの難局をいかにして解決するのか?
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488118198

 1939年作。第1部―登場人物の紹介(美貌の女性とフィアンセ、彼らの友人たちの三角、四角関係が提示される)。最初の殺人。第2部―主人公二人のアリバイ工作。しかし裏目にでて窮地に陥る。第3部―新たな容疑者の登場。第2の殺人。第4部―解決。それぞれの部に割り当てられたページ数はほぼ一致。いままでカーのミステリで構成をきにしたことはなかったけれど、他の作品もあたればエンターテイメントの作法を心得ていることを確認できるだろう。
 通常(というか、まあホームズとかヴァン・ダインとかクィーン、クリスティ、横溝あたりだが)、作者の視線は探偵の背後にある。その結果、事件の当事者を第三者の立場でみることになる。関係者の利害から疎遠なところにいるので、だいたい神の視点でみることになるのだな。神=探偵とはよくいわれることだが、探偵=読者にもしているわけだ。
 しかし、カーの諸作では、作者の視点が当事者の中の誰かになることが多い。最近読んだものから思い出すだけでも、「赤い鎧戸の影で」「パンチとジュディ」「バトラー弁護に立つ」など。多くのフェル博士、メリヴェル卿ものにおおいなあ。たぶん歴史ものになると主人公と探偵役は別人になるのだろう(逆に完全に探偵視点に立っているのは、初期のバンコランシリーズ)。
 以前、カーの小説作法は怪奇小説からコンメディア・デ・ラルテに変わったということを書いたが、それを敷衍すれば、主人公たちの役回りがそれにのっとっていることがわかる。主人公は、インナモラーティ(Innamorati)【恋をする若者達。恋の成就に困難が立ち塞がるが、最後には結ばれる筋書きで演じられる。男をインナモラート、女をインナモラータと言う】(wikiから)。となると探偵はアルレッキーノ(Arlecchino)【軽業師、道化師。ペテン師だが、悪逆非道ではないという性格づけをされている。フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインとも呼ばれている。他の登場人物を打ち据えるためのバトン(後のスラップスティック)を持っている】。バンコランもフェルもメリヴェル卿の杖やステッキを持っていることに注意。その他の人物もなぞらえることができそう。
 この作でも、ヒューとブレンダがインナモラート、インナモラータを演じている。どちらも誠実で勇気があるが、世間知に足りない。そういう若い人物が、カーのミステリで主人公を演じている。なので、事件の詳細は彼ら未熟なものの視点で見ることになり、いくつもバイアスがかかっているし、恣意的で自分に都合のいい解釈をするしと、読者を混乱させるのだ。それが真犯人の行動や動機を隠すことになるのだな。
 カーは足跡トリックをいくつか作っていて、「白い僧院の殺人」「新透明人間(短編)」「テニスコートの謎」「貴婦人として死す」がある。この順番に読まないといけない。のちの作でネタばれになる言及があるので注意するように。ここでは金網に囲まれたテニスコート。しかも夕立ちが降った後の殺人。足跡のない理由を探すときに、主人公と後見人ニック博士がテニスのネットの上を歩けないかと大真面目に議論する(というか第3部のテーマがこれ)。プロレスならアンダーテイカー(@WWE)や新崎人生(@みちのくプロレス)がロープ渡りをしている。これは、リングのロープがマニラロープやゴムチューブをまいたワイヤーロープでできていて、体重100kgを超えるレスラーを支える強さを持っているからできること。テニスを一度でもやったことがあれば(TVの注意深い視聴者であれば)、「不可能」となるんだけどね。