バンコランがレストランである男を監視している(1930年代にタキシードで、フロックコートで、金ぴかの杖だぜ)。そこにショーモン大尉がやってきて、フィアンセであるオデットが失踪してしまったと肩を落とした。聞くと、蝋人形館(マダム・タッソーのを思い出せばいいけど、この時代は衛生博覧会みたいなきわもので、歴史の暗殺や殺人を舞台化していたのだった。メメント・モリの現代版か)に入ったまま出てこない。この館は入口ひとつなのに、という。そこで、監視をやめて蝋人形館にいったら、別の婦人クローディンが殺されていた。「獣人」に抱かれているというなんとも、劇的で際物じみた趣向。戦後の乱歩はトリックの華々しさとかオカルティズムのうんちくに魅せられたのけど、ここにはそんなのはない。そのかわりに、通俗小説の乱歩が好きな生き人形とか、見世物とかがでてくる。
さて、大尉のフィアンセは蝋人形館に隣接するクラブの横の道で刺殺死体で見つかっている。蝋人形館で見つかったのはこのフィアンセの友人。というわけで、この二つの事件は連続しているのではないか、と思わせる。そこで、蝋人形館とそれに隣接するクラブを捜索することになる。蝋人形館は老人と娘の経営で、たぶん映画に押されて苦しくなっている。またクラブは、男性50人、女性50人限定の秘密クラブ。場内では仮面をつけなければならず、本名を名乗ってはならない。行きずりの仮面の男女がであって、それぞれ専用の個室にこもって(ピー)とか、(バキューン)とかをしている。まあ、なんていやらしいんでしょ。江戸川乱歩「覆面の舞踏者」と同じ趣向で、規模がもっとでかい。ホールでは専属のオーケストラ(と書いてあるけどバンドだな)がジャズにタンゴを演奏している。手風琴と書いてあるけど、バンドネオンのことだろう。ここらへんの描写がなかなか面白かったなあ。出版された1932年にはこの種の風俗はもうやれないほど不況になっていたと思うので、ある種のノスタルジーを感じただろう。で、殺された二人はクラブの会員。一方、客の入らない蝋人形館の娘マリー・オーギュスタンはなぜか100万フランの大金を銀行口座にもっている。すなわち、蝋人形館の出入り口をクラブの秘密の出入り口に貸し出し、利を得ていたのだった。しかも会員になっていて、昼は労働者、夜はクラブの蝶(死語)という二重生活を楽しんでいた(この人物が一番興味深かった)。
さて、ほかの登場人物で重要なのは、クラブの経営者エチェンヌ・ガラン。こいつは夜の業界を渡り歩いていた古だぬき。殺された二人と面識があった。あとは蝋人形館で殺された娘の両親マルテル大佐夫妻。たぶん40代後半に産んだのだろう。どちらも高齢で、体が不自由。外にほとんど出ないで、一人でドミノをするくらい。金を持っているだけに、精神の孤独さが際立つ。
後半は、バンコランの友人で語り手ジェフ・マールの冒険。クラブの秘密を探ろうと侵入するまではよかったが、経営者に逆襲され用心棒(バウンサーではなくアパシュだって)に取り囲まれる。2階の窓を破って脱出し、隣の蝋人形館に逃げ込む。ここらへんの冒険活劇はのちの「ビロードの悪魔」「連続殺人事件」他で繰り返される。経営者は追いかけてきたが、曲者に首を切られる。蝋人形館の窓から、首を血だらけにした男がものすごい形相をしてのぞきこみ、ナイフを抜いて息絶えるという歌舞伎張りの大見得。
これは本格探偵小説ではないな。蝋人形館に秘密クラブという非日常の場所で、恐喝者とバウンサーに追いかけられるという冒険をし、メガネをとったら実は美女だったというロマンスを主題にした伝奇冒険小説。ミステリーのスパイスを振りかけて香味をましましたというもの。秘密クラブの経営者ガランが悪の凄味を体現していて、こいつの健闘ぶりが光る(悪党らしい憎たらしい死に方を披露)。そういう意味では乱歩の通俗長編(「吸血鬼」)や戦前の横溝正史の長編(「夜光虫」「仮面劇場」)に似ています。意外な犯人にこだわりましたよ、フェア・プレイ?なんですか、それ、と作者は言っていると思いました。
あと、ここでは19世紀生まれの老人のモラルが20世紀生まれのモボ・モガ(死語)のそれと会わないという世代間ギャップがある。1920年代のパリが放埓な街で、そこに芸術家と称する連中やドル高フラン安をあてにしたなにもしないアメリカ人などがやってきて、ごちゃごちゃしていたんだ。そのような風俗をどう見るか、という視点だな。この主題をカーはのちに何度も繰り返している。そこにも注目しておきたい。
いつかは知らないけど創元推理文庫で新訳がでていたのか。話によるとポケミス版は縮訳で、新しい文庫は完訳版だとか。なるほど、ポケミス版では筋を追うのが難しかったのはそういう理由があるのか。傑作・佳作にはほど遠いにしても、入手難が解消されて重畳重畳(死語)。
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