odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エラリー・クイーン「途中の家」(ハヤカワ文庫)  探偵小説は、登場人物に経済学的な合理性を要請するのだが、被害者と加害者だけにはそれが免除されている。

ニューヨークとフィラデルフィアの中間にあるあばら家で、正体不明の男が殺されていた。男は、いったい、どちらの町の誰として殺されたのか? 二つの町には、それぞれ殺人の動機と機会を持った容疑者がいる。フィラデルフィアの若妻とニューヨークの人妻をまきこんだ旋風の中に、颯爽と登場するエラリー・クイーン。巨匠が自薦ベスト3に選ぶ迫力編!
中途の家 - エラリー・クイーン/井上勇 訳|東京創元社

 古典派経済学にはひとつの前提があって、それは人は自分の利益を最大にするために、あるいは幸福を増大にするために、合理的な行動をとるということ。この前提を貫徹して、経済学を構築しようとすると、時としておかしなことになる。たとえば、人が最大利益を獲得するためには、商品の市場における価格をすべて知っていて、その上で合理的に判断しているなどということ。もちろん市場はきわめて範囲が広くそこで商品を販売している企業・業者は無限にあり、かつほかの人の購入行動によって価格は変動するのであるから、市場価格を完璧に認識することはありえない。そして、時として安い商品を購入するために、移動費や運送費をかけることによって、より高額な代金を支払うこともある。このあたりまで勘案すると、もともとの前提はある特定の条件下でしか成立しない。
 同じ前提が探偵小説にもあって、やはり登場人物は自分の利益を最大にするために、合理的な行動をとるものとしている。どんなに不自然な行動(証言を拒否する、怪しまれるような隠密行動をとる、別の人を恐喝するなど)も後には合理的な理由が存在していた、と探偵によって暴露される。だから探偵=読者=理性は、事件にちりばめられた証拠や行動、証言などを合理的に解釈しなければならないことが要請される。そして、事件がおきたときに発覚した不自然さ、非合理的な行動や証拠、矛盾した解釈などが最終的には、一貫した論理によって説明される。証拠や行動、証言もピースパズルのように、論理のそれぞれの段階に当てはまらなければならない。
 クィーンはそのあたりの合理性・論理性を貫徹する意思の強い探偵小説を書く。国名シリーズや悲劇シリーズは、その徹底振りによって、探偵小説の形式を純粋なものにした。たぶん、これほど形式にこだわった小説はほかにないので、背景の古さ(テクノロジー、風習、風俗、心理など)があっても、いまだに多くの人が愛好する。知的蕩尽にもってこいのパズルであるのだ。
(ここでも、現場に残された6本のマッチというささいな手がかりから、一気に解決に至る道筋を作るところが見事。「エジプト十字架の謎」もからの壜から一気に犯人を指摘する論理を構築していた。それに次ぐかもしれない。いずれも普通の状態とは「欠けている」というところに引っかかる。科学研究も異常な観察事例から仮説を発想するので、そのあたりは似ているなあ。)
 とはいえ、最初に見た経済学の例にあるように、形式を徹底しようとすると、どこかにほころびが出てしまう。それが端的に現れるのは、被害者と加害者。彼らは、経済学の要請する合理的経済人であることを免れている。そのことに対する批判は現れない。この「途中の家」でも、被害者は二重婚を犯していて、10年にわたりそのことを隠している。それは経済学的な合理性には合わない。同様に、加害者もある事実によって殺意を抱き、計画を練り、実行する。それは結局のところ、探偵によって見破られ、経済的な破滅にいたる。「犯罪は引き合わない」という通俗的な格言にもあるように、合理的なものではない。
 というわけで、探偵小説は、登場人物に経済学的な合理性を要請するのだが、被害者と加害者だけにはそれが免除されている。ようするに合理的という形式を貫徹するためには、ルールを破らなければならない。これに共同体の善悪をどのように評価するのか、という問題が加わると、後期クィーンの「もんだい」になるのだろう。(と考えたが、少し強すぎる主張だと思いなおしている。)
 別の話に移る。クィーンは10数作の形式化を徹底した探偵小説のあと、トリッキーな舞台設定をやめるようになっている。古城、大邸宅、外部と途絶した邸、奇怪な人々、そんなゴシックロマンス風味が消えていって、リアルな世界と人物、事件に変わってきた。国名シリーズのたとえば、シャム双子やスペイン岬、アメリカ銃のようなファンタジックな設定ではなくなった。その結果、ストーリーがだんだんハードボイルドやサスペンスに近いものになっている。状況設定をかえれば、これはチャンドラーやアイリッシュが書いてもおかしくないような事件なのだ。にもかかわらずクィーン的になるのは、ブルジョワ社会で起きるから。
 発表は1936年。ケインズ政策が始まったあたり。長い不況はようやくクィーンの小説に現れる。途中、エラリーは容疑者の一人とデートを繰り返すのだが、探偵はブルジョワのお嬢さんに貧困者救済施設や労働組合の会合などを見せて回る。その背後には、アメリカの労働運動の激しさや政府の大企業優遇政策、セイフティネットの不足などがある。これからの読者が、アメリカ史やガルブレイスの「ゆたかな社会」「満足の文化」などに興味を持つことを期待したいなあ。


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