宝石と切手収集家として著名な出版業者の待合室で殺された、身元不明の男。被害者の着衣をはじめ、あらゆるものが“さかさま”の謎。〈ニューヨーク・タイムズ〉紙が「クイーンの最大傑作」と激賞したが、読者の判定はいかがだろうか? クイーンがつくりあげた密室殺人事件の卓抜な着想は、数多ある作品中でも特異の地位を占めるものとして人気を得ている。
チャイナ橙の謎 - エラリー・クイーン/井上勇 訳|東京創元社
事件のが起こった部屋は「さかさま」であった。この「さかさま」は通常、upside-down(上下反対)の意味で使われて、中学生の頃に読んだときにはそう思っていた。しかし、ここではflontside-back(裏表反対の意。こんな英語があるかどうかは不明)。本棚、壁の絵、絨毯(のちの解明で絨毯が反対のことに言及はなかった)が、通常の向きとさかさまになっている。ここには注意が必要。そこに切手やコインや古書の収集に関するうんちくが語られる。まあ、エラリーったらちゃめっけたっぷりなんだから。まず自分が楽しもう、ということなのね。
次の趣向は、被害者の身元がわからなくても、事件が成立するということ。通常、被害者の所有するものをめぐる確執(遺産の受取、三角関係の清算、親子関係の暴露など)が起こり、事件の焦点はそこに絞られていく。ここでは死体は単なるbody、物体にすぎない。解明においても、被害者の職業は特徴的であっても、名前は明かされなかった。にもかかわらず、関係者に不安と疑惑が起こり、それぞれが合理的とは思われない行動をとらせていく。こういうことは普通ありえない(なにしろ関係者すべてが「被害者を知らない」といったら、捜査の方向は別にむいてしまうだろうに)。そこを登場人物だけが容疑者であるような状況を作った、というのが面白いところ。
また、この事件には一つの家族の肖像が描かれる。頑固な言語学者、頼りない息子の出版社経営者、影と幸のうすそうな娘。ブルジョワの彼らの周辺にいる企業家やスノッブな好事家。ここには二つかそれ以上の恋愛が進行していて、彼らの関係は予断を許さない。殺人事件よりもむしろ、事件によって暴かれる人間関係と過去の秘密のほうがより痛切な主題だろう。このような人間関係はのちのライツヴィルものあたりでより詳細に検討されることになる。だから、これは後期クィーンを予感させる注目作。
探偵の視点でストーリーを語ると、クイーンの立場は情報入手に漏れがないということ。カーのように事件の関係者を主人公にすると、情報入手が限られ、その評価にもバイアスがかかる(それが謎を混迷させることになり、「意外な結末」を用意することになるのだ)。その点、警察力を背後にもつ探偵の手元には最新情報が続々と到着し、情報間の整合性を確認したり、真偽を評価することができる。バイアスのかからない評価ができる位置にいるわけだ(読者も探偵と同じ条件でいることにしているから、「読者への挑戦」が可能になる)。その代わり、プロット(事件が進行する過程)通りに情報が来るわけではないので、情報を整理・統合することが大変難しくなる。
途中で探偵クィーンは「ハメット」を引き合いにだして、彼のような観察機械である探偵を揶揄している。ずっとのちにクイーンはハメットの探偵みたいになるのだけどね。
ホテル付きの探偵(ホテル・ディック)が出てくる。ここではほとんど存在感がなく、役割もよくわからない。彼の仕事は都筑道夫のホテル・ディックシリーズで勉強しておくこと。「殺人現場へ二十八歩」「毎日が13日の金曜日」「脅迫者によろしく」など。
内容に関するいちゃもん。ネタばれあり。ご注意を。
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・1934年作だからということか、中国を漫画的に描いている。「中国人は他人と握手するのではなく、自分と握手する」って、漢の官僚が皇帝に拝謁するときのお辞儀じゃん。それ以外にも、侮蔑的な描写がたくさん。数年後、第2次大戦がはじまると、「ペントハウスの謎」のように状況は一変するのだが。
・撲殺された死体の出血はどうだったんだ。死体周辺に散っていたという描写があるのに、あのトリックには無関係だったのだろうか。また、絨毯に血が染みついていたとすると、それを裏返したことによって、どのような事態が生じたのか、類推可能だったのではないか。