伯父が購入したと思われる昭和30年刊の河出書房版。のちの講談社文庫版ではない。この河出書房版は新書サイズの叢書で、一連の刊行物には伊藤整「典子の生きかた」、三島由紀夫「夏子の冒険」、リルケ詩集、大岡昇平「武蔵野夫人」、石坂洋次郎「丘は花ざかり」、ヘミングウェイ「武器よさらば」、庄野潤三「結婚」などがあり、野間宏「真空地帯」だけが異彩を放っている。となると、この叢書の意図は明確で、戦後の自由恋愛の時代におけるモデルを提示しようというものであった。なるほどこの趣旨では夏目漱石「それから」、森鴎外「舞姫」などの戦前文学の入り込む隙間はない。もちろん、自由恋愛の方法について無知でうぶな当時の青年(昭和一桁生まれの人たち)にとっては、これらの小説群ですら行き過ぎたもの、憧れの先にあるものであるのだろう(まあ、文学の表現における、という点で。この数年後に現れた石原慎太郎「太陽の季節」はこれらの小説のうじうじしたところを超えていたので、大反響を巻き起こしたのだった)。一方、パンパンやオンリーさんのような別のかたちの恋愛を実践した女性たちもいたのだが、彼女らを無視していたことを指摘しておく必要はある。まあ、作者たちにとって、恋愛はまず観念であったということが重要なのだ。
物語はあれから3年(なのかな)たって、不破雅之(青年医師)と及川文枝(洋裁店のデザイナー)が再会するところから始まる。不破は井 口 冴 子(当時21歳)と婚約していて、冴子を訪れたとき、冴子の友人文枝と会う。彼らは奥村次郎という男を媒介にして奇妙な三角関係にあった。奥村という男は超人思想の持ち主で、神が不在であるから自分が神であり、神であることを示すために自由意志でいつでも自殺するという覚悟を持っている。友人・不破は優柔不断で成績優秀な医学生。あるとき、街の洋裁店で見かけた文枝に一目ぼれするが内気でかつ自尊心の強さのために、恋愛は進展しない。奥村は彼の思想が確定した日から百日後に自殺することを宣言し、その前日に文枝を呼び出し、強姦する。その翌日奥村は自殺。不破は奥村と文枝の関係を知らないために、自然と疎遠になり、現在(昭和30年の再会の日)にいたる。物語は、不破と文枝が再会した日をスタートとし、二人の回想が挟まる。物語を支配するのは過去の出来事で、現在は二人の悔恨とか疑心とかそんな感じで、過去に捕らえられて、自縄自縛の状態のまま互いに傷つけることしかできないという状態を確認するためのものである。過去の物語は4つの節からできていて、登場人物の紹介のあと4分の1がたって奥村の自殺思想が語られ、半分で奥村の死が起こり、4分の3で奥村と文枝の過去がわかり、最後の場面でとりあえずのハッピーエンド。これは、不破-文枝-奥村の三角関係においての話。現在の三角関係である不破-文枝-冴子で見ると、冒頭はフィアンセであった冴子には婚約の破棄というバッドエンドが訪れる。不破にしろ、文枝にしろ過去にとらわれて、取り付いていた憑き物が落ちたのだから、こういう解決のほうが「自然」なのだろう。元は健康であった冴子からすると、20歳を過ぎて結核に罹患するというのは不条理そのものであり、そこにこのような彼女の自尊心を崩壊させるようなことがおきるわけで不憫なものだ。
タイトルである「夜の時間」というのは、とりあえず不眠と懐疑と孤独のある場所になるのだろう。そこには、自分ひとりだけがいて、他者に対する信頼や依頼心というのはないところ。そのような夜の時間を最もすごすことになるのは、冴子であるのだが、実のところは全員がそれぞれの夜の時間をもっているのであって、奥村の超人思想というのは唯我論の奥底をのぞくことであり(彼の思想は徹底していないことになり、それが現代の読者を安心させる)、不破と文枝は互いを意識しながらも、互いに疑心暗鬼に取り付かれ、はたからみると高橋留美子「メゾン一刻」の響子と五代のようなすれ違い、勘違いに落ち込んでいるだけであるが、それを誰も理解しない状況においては彼らの心底においては諦めを受け入れるしかなく、それは明確な「夜の時間」なのだ。このようなすれ違いも、不破のもとに奥村の幽霊が現れることによって(あれ「カラマーゾフの兄弟」か「死霊」か)、疑惑を吹っ切るきっかけとなり、ようやく不破は自分で自分にしかけた心理の罠から逃れることができたのだった。まあ、恋愛においてはコミュニケーションをしっかりとりなさい、嘘はいかんよ、と通俗的なアドバイスにでもまとめておこうか。
登場人物たちの造形をみると、ドストエフスキーの息子や娘たちというしかなく、奥村の超人思想と自意識が明確な状態での自殺は「悪霊」のキリーロフに他ならない。文枝の強姦は「悪霊」スタヴローギンの隠されたエピソードになるのか。結核に蝕まれて青春にありながら死を近親にもつ冴子は「カラマーゾフの兄弟」のリーザ(アリョーシャの婚約者)であり、純真とサディズム、自己の放棄と他者危害を併せ持つ複雑な人物。文枝は何事も自分の責任と思いながら他者への奉仕を行う「虐げられた人々」のナターリアとか「罪と罰」のソーニャとか。優柔不断さを明晰に自己分析する不破はたぶん「地下生活者」なのだろう。後者ふたりは牽強付会に過ぎることを認める。まあ、これらの人物造形にドスト氏の影、というか積極的な模倣があるということを確かめておけばよい。問題はあまりにロシア的な人物を日本を舞台にして存在可能と思わせることができるか、というところにあるが、そこは舞台を抽象的に設定し、生活を隠し、いずれの人物もインテリで、抽象的な思考ができるというところでクリアしようとする。先駆者は埴谷雄高「死霊」。
なんとも変な作品。4人の登場人物の三角関係とその解決は通俗的なのに、饒舌に語られる心理の説明と奇妙な思想はある程度の知識を要求するハイブロウなものだった。福永の小説はたいていそんなものだったと思い出すが、これほどねじれているのも珍しいのではないかな。昭和30年代に20代だった読者たちは、新しい恋愛の方法を学んだのかしら。
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