2022/10/28 福永武彦「死の島 上」(新潮文庫)-1 1971年
2022/10/27 福永武彦「死の島 上」(新潮文庫)-2 1971年の続き
萌木素子は広島生まれ。そのため、20歳のときに原爆に被災する。彼女は軽症であったので(しかし背中にケロイドがあり白血球減少で貧血であり疲れやすい)、医師にボランティアを志願し、被災者の手当てや死者の弔いなどを行った。その体験は圧倒的であり、現在(「それから8年」というので、昭和28年)の復興しつつある東京はリアルであると思えない・・・。とても重要なテーマなのだが、1971年の作者の筆はこの体験を描くことができない。たとえば、素子にこのように述懐させる。
無数ノ死ニハ何一シ意味ハナク、コノ地上ニ何一シ美シイモノハナカッタ。(P126)
うーん、その一言を言わないで、読者がおのずからそう思わせるように書くのが文学や詩ではなかったのか。峠三吉や林京子の原爆文学にこのような一節を見たことはないのだが。(それに、相馬は「広島」ときいて「死の島」と間違える。タイトル「死の島」も、この連想というか地口からできたようで、思い付きにみえてしまうのだ。)
また、相馬はある同人誌に加わっていて、やはり原爆体験を持つ同人が自殺した時に、追悼号を作ることに乗り気になる。彼の死と同人がかかわる平和運動との関連を論文にしようとするのだ。そのアイデアは素子に拒絶される。追悼文を書くように勧められた素子は頑強に拒み、平和運動が自分のような被災者には何の関係もないと弾劾する。
30年前に読んだときにはわからなかった素子の拒絶に理由があることがよく分かった。なるほど、彼らの平和運動(おそらく実際の平和運動も)は、被害者に寄り添うことを目的にして(なので被害者に寄り添う、死者の代弁をするなどという)、為政者や軍人、多くの無関心者の意識を変えれば、平和は実現すると考えている。これは「主体モデル」という運動の在り方(画像参照)。
原爆という暴力に抗議・抵抗する際に、被害者を押し立てるやりかた。それがだめなのは、被害者の暴力の前面に立たせることで、既に受けている暴力や差別をさらに強化することになるから。被害者の強さを期待することで、被害者のさまざまな事情を無視することになるから。素子のような内部の批判にはパターナリズムで説得しようとする(マジョリティの意見の押し付けだ。それに、この説得にはミソジニーの含まれる)。これでは暴力に対抗できない。21世紀10年代の市民運動の経験は当時の「主体モデル」の運動ではうまくいかないことを明らかにした。
この「主体モデル」は、相馬が二人の女性に示す態度でも繰り返される。すなわち、相馬は「二人のことを考えて」行動するけれど、実際は相馬の都合を押し付けているだけなのだ。それは素子にも綾子にも見抜かれていることであって(だから素子の絵を欲しいとか鉄錆色のカーディガンをプレゼントしたとかでも、相馬の下心を指摘する)、しかし相馬は彼女らのためを思っているからと、指摘や拒絶に全く気付かない。相馬が素子にであい、綾子を口実に繰り返し二人の下宿に押しかけるようになってから、相馬は二人から拒絶されているのに全く気付かない。のんきなことに、相馬は二人のうちどちらを愛しているのだろう、などと妄想にふける。
このような行動性向はドスト氏の「白夜」「地下室の手記」の語り手もそうだった。自意識過剰、強い自己愛、自分の思い込みの他人の押し付け、それに基づく他人への過剰な期待(裏切られると威嚇的暴力的になる)など。
作者はこのあたりの事情を把握していたのかなあ。相馬は愛を口実に、自分の妄想を二人に押し付けているだけなのだが、それを「愛」のあり方のひとつだと思っていたのかしらねえ(作者には「愛の試み」という断章集があるが、これも男の「愛」の押し付けだったと記憶。途中で腹が立って読むのをやめたから詳しく覚えていない)。
(しかし、この批判はまったくそのまま自分に跳ね返ってくる。相馬の「愛」の押し付けは、俺が20代、30代にやってきたことであって、どれほど他人に迷惑をかけてきたのかと恥じ入ってしまうのだ。下巻になるともはや読書の気力が続かず、ページを飛ばし読んだが、ときどき大声をあげて逃げ出したくなるような、赤面してうつむきたくなることが何度もあった。)
「死の島」のテーマは(男の一方的な)愛だが、ほかに小説を書くことにある。相馬は素子と綾子(となにより自分自身)を主要キャラクターにする小説の断片を書いているわけだが、完成するだろうか。というより完成しない小説はそのままにで、「現実」の報告書を書いて隙間を埋める。そうして出来上がったのが本書になるのだろう。小説を書くという決意と成果が一冊にまとまっている。19世紀の小説のように全部や全体を書けない20世紀の小説の方法だ。どうも方法や技術が先行しているので、上のようなテーマが採ってつけたように見えるのだ。
探偵小説的構成をもっているのだが、上巻で期待したような犯人捜し、動機探しは行われなかった。あったのは、多重解決。誰が死んだのかわからない状況があって、広島の病院に到着すると解けるはずであったが、3つの解決を示す。素子が死んだ場合、綾子が死んだ場合、あるいは・・・。平行宇宙を創ると、1971年当時ではかんべむさしや広瀬正が先駆的にやっていたかもしれないが、そこまでの実験はできなかったと見える。
むしろ、冒頭眠りから覚めて再び鉄道の客室で目を覚ます相馬鼎は、虚構の中にいることを自覚しているキャラクターであるとみたほうがよいのではないか。彼は自分の置かれた状況を把握できないし、なにが人生のミッションであるかを知らない。とりあえず過去に知っていた女性が睡眠薬による自殺未遂をしたので、容体を把握するために鉄道に乗る。その間、ノートを読みふけることしかすることがない。到着しても事態は不明なままであり、自分が誰を愛しているのかもわからない。そのようなあいまいで空虚な存在にあるのだ。でも、相馬は自分探しをしないし、ミッションをつくることもしない。これは日本の知識人の典型的なありかたといえるかもしれない(「文学と政治」という問題を作っても、「政治」は共産党員になるか否かという問題に矮小化され、平和運動はするけど政治にはかかわらないという奇妙な立場を作ってしまう。まったくそのまま相馬と同じように)。それよりも、目覚めてすることのないカメラアイが空虚をさまよう意識の流れを実況しているとみようか。筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」1971年(同じ年だったのか)、「虚人たち」1981年などにつながる実験。
(追記。ドストエフスキーの「二重人格(分身)」が世界を虚構とみなすようになったキャラクターの独白で書かれていて、本書の趣向に似ている。)
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