odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

福永武彦「告別」(講談社学芸文庫)

 1962年初出。
 中年のおとこ。大学教授で小説家も兼任にしている。彼の友人、上條慎吾は肝臓がんで死のうとしていた。主人公の小説家は上条のことをよく知らないが、彼の介護のために奔走する。上條は戦争中、学生結婚をしてそのまま召集。帰還すると娘が生まれていて、その後文学研究者として大学の職を得て、また音楽評論家でもある。1950年代半ばにドイツに留学(加藤周一みたいなフルブライト留学生だったのか)、現地でマチルダという娘か女と恋仲になる。ラインやセーヌで逢瀬を重ねる。誤算だったのは、マチルダが彼の帰国より早く日本にきて、彼の家族と会っていたこと。マチルダか妻かの選択を迫られ、彼は家族を選ぶ。マチルダの来日の後に、彼の娘は(たぶん自殺)なくなる。その一周忌も過ぎないうちに自身が癌に侵される。モルヒネのもたらす睡眠効果の元で、彼は自分の半生と選択を述懐する。そのとき彼の脳裏に聞こえるのはマーラーの「大地の歌」から告別。「生は暗く、死もまた暗い」というモチーフが彼に痛切に突き刺さる。というようなプロット。これを小説家の時間と、上条の心的風景で交互に描き、「私」という一人称がどちらのものかよくわからないという設定。
 かつては、このナラティブにおいて、自分の心象を的確に表現したものだと、納得しながら読んだ。今回は、あらというか、作者の心持というか、そんなところに腹が立つような気分になって、楽しめなかった。1920年前後の生まれで、戦争体験のある中年男のパターナリズム、というか身勝手というか、わがままみたいなところ。それぞれ妻がいて献身的であるのだが、彼女らは俺の心はわからんとか、あいつは何を考えているのか底が知れないとか、入院中は宿泊して付き添うのが当然とか、そんなことを思うのだよね。上條はマチルダがきたとき、娘にどちらを愛しているの本心を明かしなさいと迫られるも、答えは「娘のいうとおりにしよう」であって、それはすなわち女の諦念というか貞操とかそんなことを要求していながら、彼女らに寄生する甘えとおごりを感じて、気分が悪い。福永武彦というのはそんな父権主義のイデオロギーを持っている人だったっけ?
 好意的にみれば、ドイツ留学のマチルダとの恋愛と来日というのは森鴎外舞姫」を語りなおしたものだし、上條の癌や語り手「私」の不安神経症など病気を描いては一級品のさえをみせてはいる(この時代、癌告知は医者にも患者の家族にもありえないことであったというのがわかる)。あるいは中年の上條が仕事を家族をマチルダを、そういう彼にとって替えが得のないものを断念していく過程の心的描写は的確だと思う(独身者の自分には彼の諦念もあまい、というか、ラディカルではないと思うのだが)。そういう主題とは関係のないところの描写はよいね。だけれど、男のパターナリズムとかマチズモなんかは時代の制約であるにしても、今日的ではなくて楽しめなかった。あと、銀座のバーで大学教授たちが交わす文学や音楽の真実論というのも、もはや古臭い。人間の「真実」を描くことが芸術の本質である、そういう論はアドルノを持ち出さずとも成り立たないでしょう。
 この人の小説はこんなに抵抗感をもたらすものだったのかしら。「深夜の散歩」の洒脱なエッセイのほうが彼の本質に近い、そう思いたいなあ(とバルトを読んだ直後であるので、「本質」なんて言葉を持ち出すのは愚かしいことだ)。

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 併録は「形見分け」。漁村の西洋館に住む二人の男女。男は戦争でかかったマラリアで記憶喪失だが、絵の才能を見せる。同居する女は彼にかいがいしく尽くす。男はよく夢をみて、彼女に分析させる。ときに男は自分の葬式の夢を語り、そのとき形見分けと称して男の才能、名声、そんなものを引き継いだ、一人の女は彼の記憶喪失を引き継ぎ、男は女の目で世界を見たりもする。子供のイカ釣りにさそわれて、船から落ちた男は過去を取り戻す。その過去とは・・・ 探偵小説的な趣向ももった心理小説。彼らの独白は句読点のない文章(そのうすっぺらい文章が「新本格」の夢の描写に似ていることに気がつく)で語られ、それ以外は普通の文章。ある点では、「告別」の終わったところから始まる小説であるのだが、結論は「愛の可能性」をいうことか。記憶を回復した彼と彼女が「幸福」であるかは不明。作者もそこまで追いかけないのだが。