odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

三島由紀夫「潮騒」(新潮文庫)

 昨日取り上げた「ダフニスとクロエー」をこの国に移植したものはなんだろうと考えて、この作品を取り上げることにする。もちろん、初出当時からこのことは指摘されていたのであって、とくに目新しい意見ではない。
 いくつか釈明をしておくと、以下を書いたのはずいぶん昔で、「ダフニスとクロエー」の感想を書く前のこと。だから、同じことを繰り返しています。さらに読んだのはもっと昔のことで、どれくらい昔かというと、このエントリーを読んだ人がひとりとして生まれれていないころ、それどころか太陽と地球の区別すらできていなかったころのことだ。そうとも、それはQfwfq爺さんが一緒にいたことを証言してくれるはずじゃ(うーん、カルヴィーノボルヘスの真似は難しい)。


 あるインターネット掲示板三島由紀夫を読むのに、何から入ればいいかという質問があった。「潮騒」「午後の曳航」「金閣寺」を薦めておいた。でも、手元には本がないので、どんな話だっただろうと、内容を思い出すと、いくつかのシーンが鮮やかに浮かんできた。主人公の母親は料理が得意でなくて、焼き魚かしょうゆで煮締めた魚しかださなかったとか、離島の小学生が修学旅行で映画館にいくと折りたたみ椅子の使い方がわからなくて叱られたとか、あれ、あまり筋とは関係のないところばかりだな。
 物語は戦前か戦後か、まだ近代化される以前の漁村。たくましい漁師の少年と美しい海女の少女の清潔な恋愛。少年は漁師の大人に交わりながら、亡羊とした少年から大人に変わっていき、父のいない家を支えることを決意していく。少女は海女たちに混じって、社会(村の共同体だけど)に参加していく。とくに少年には、嵐で沈没しそうな船をすくうために夜の海へ泳ぎに行くという通過儀礼が用意されていて、この物語が共同体に主要な一員として所属するためのイニシエーションを描いていることが明らかになる。
 これを読んだ当時は、主人公たちをほぼ同じ年齢であったこともあって、この物語に強い共感を持っていた。しばらくするとその人工性に辟易としたのを思い出す。奇麗ごとすぎるよ、彼らには性欲はないのか、物事に悩むことはないのか、それでいて鷹揚にことに対処していく、そして最後にはきれいな大団円。まあ、内面性とか悩みとか理由のないいらだち、腰の座らないふわふわさを感じる年齢だったから、こういうまとまった物語に反発したのだろう。もちろん1950年代と1970年代の意識の差や文学表現の差などが反映しているのだろうが。
 ずっとたって、「ダフニスとクロエー」を読んでみたら、同じような世界(反=都市)で同じような年齢の少年と少女が出会い、引き離され、苦難を乗り越え、性をそれぞれに体験し、再び出会うというほとんど同じ話だった(というか、ハーレクインrマンスでも反復されるよくあるストーリーであるのだが)。「ダフニス」はローマ時代の物語だが、できたときからリアリズムを志向したものではなかった。ここにある田園風景もローマの都市に住む市民の憧れや理想郷であったのだ。そういうここにはない世界に理想的なカップルを放り込むことによって、彼らに共感・思慕することができた。
 「潮騒」も「ダフニスとクロエー」もそういう仕掛けを楽しむものなのだろう。そういう意味では、「正しい」読み手は高校生ではなくて、初恋を懐かしく思うような中年以降であるはずだ。