odd_hatchの読書ノート

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マリオ・バルガス=リョサ「都会と犬ども」(新潮社)-2 現在を語る3つの文体と過去を語るナラティブ。文体に仕掛けられたトリックに気づけるか。

マリオ・バルガス=リョサ「都会と犬ども」(新潮社)-1 の続き。
 今度は書かれている内容ではなく、書き方について。

 ドストエフスキーの小説をポリフォニックというけど、バルガス・リョサの小説もポリフォニック。すなわち、複数の語り手と文体があり、時間と場所を規則なしに並べているところ。そのために、読者はいったい誰の視点でかかれているのか、いったいいつの時代のことなのかをその都度考えなければならない。
 複数の時間のうち「いま」にあたる士官学校の話は、3つの文体で。ひとつは三人称の普通の小説の書き方。これが時間と場所の基本情報になり、事件の推移の客観的な記述になる。そこに加わるのが、アルベルトとゴアの二人の一人称の告白。アルベルトは比較的優秀な生徒の作文とでもいおうか。客観的な記述に自分の心情が加わっていくというもの。ゴアのは粗暴で無学な、まあ「DQN」の「意識の流れ」。一文ごとに時間と空間と興味が跳躍し、とりとめのないもうろうとした心情世界をつづる。士官学校内では生徒は「犬っころ」と呼ばれるのであって、それがタイトルになっているわけだ。おおむね士官学校内の出来事が語られるが、ときに外出した生徒は時間を惜しむように、恋人のもとを通う。現在物語の内容は、別のエントリにまとめた。
 もうひとつは「むかし」にあたる少年時代(というか思春期入りたて)の回想。これは語り手不明(ただし、士官学校の生徒であることはわかる)。ここでは、子供からみる親、親の意向に振り回される子供、最初の恋愛、変化する身体への違和などが語られる。これらは割と普遍的な主題と心情。たぶん、多くの読者は自分のローティーン時代を思い出すことになり、共感を持つことになるだろう。不安、不満、欲望、おそれ、衝動、無鉄砲、懐疑、軽蔑、憧れ、などなど一瞬ごとに変化する心情がみごとにつづられているから。親のエゴだったり、兄貴分の悪への誘いであったり、ませた女の誘惑などで、男の子が危険地帯に踏み入れながらも持ちこたえどうにか「自分」を保っているのは感動的。それをスポイルするのが、貧困、学校や軍の規律であるというのは皮肉な話。
 今の士官学校とむかしの町中の話が交互に現れる。
 さて、この二つの話は最後のエピローグで一つにつながる(以下ネタばれになるのでご注意)。

 むかしの少年時代にラスフローラスという町で、あまりいかさない(死語)少女のテレサに入れ込んでいた。町で出会い、ダンスで手を取り、デートをして、海水浴にもいく。家や学校のごたごたで、この最初の恋愛は敗れることになる。そして少年は士官学校に進むのだった。驚きになるのは、このテレサを愛していたのは、アルベルト(むかし)とリカルド=奴隷(いま)だけではなく、ジャガーもそうであったということ。アルベルトとジャガーは同じ女の子を争っていて、海辺でケンカをしているのだ。むかしの回想は一人の少年の記述のように思えたのが、実は二人の記述であったのだ。少年たちの初恋物語では、粗暴なジャガーと理知的なアルベルトの差異はほとんどない。同じくらいにナイーブでセンシティブ。それが、「いま」においてあれほどの違いになるなんて。(ただ、この時の因縁は現在で起きたリカルド射殺事件の原因ではなさそう。すくなくともジャガーは覚えていない)。
 解説では、アルベルトとジャガーが同一人物であるような説明をしていて、そのように誤解する読者もいるようだが、それは無理というもの。それでは、2部のおわりでアルベルトとジャガーが独房で対面し、無言の喧嘩をし、のちに和解の可能性が示唆されるのが説明不可能になるものね。
 この複数の語り手、複数のナラティブ、複数の時間という方法。そして、複数の事件が最後のエピローグで一気にひとつにからみあって、それまでの断片がひとつにまとまるさまは見事。これほどの使い手は見たことがない(まあ、ドストエフスキーがもっと大きな成果をあげているのだが)。若干26歳で書いたのかよ、とカバーや解説を見てさいど驚愕することになる。それに、書く側のタフなこと。たぶん1500枚くらいの長さになり、たくさんのエピソードを詰め込んでいる。読む側もタフさを要求される(ときに長すぎる!と悶絶したくなるときがあるけど)。
 とはいえ、これが大成功しているか、というとそうにはならなかった。次作「緑の家」だと、たくさんの物語とたくさんの人物が共鳴し合って、たくさんの場所とたくさんに時間が多層に重なり合って焼失したはずの「緑の家」が幻のごとく再現するのに感動したのだけれど。たぶん、いまとむかし、士官学校と都会のコントラストがはっきりしなかったからではないかねえ。緑の家のような中心がなかった感じ。あとは、自分の側の問題としては、いわゆる「DQN」の心情に共感するどころか、嫌悪したからだねえ。同じような点で野間宏「真空地帯」やキューブリック「フル・メタル・ジャケット」前半も、おもしろいけど共感しないし。



2022年6月に「街と犬ども」のタイトルで新訳が光文社古典新訳文庫からでた。