odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

中野雄「ウィーン・フィル 音と響の秘密」(文春新書) 雇用の機会均等の原則が機能していない時代を懐かしむインサイダーの自慢本。

 著者はどこかのレコードレーベルの録音技術者かプロデューサー。クラシック分野で仕事をしていたので、ウィーン・フィルやそのメンバーと一緒になることが多かった。ウィーンその他のヨーロッパ諸国や来日公演などいろいろな場所で、演奏−録音をともにしていた。そうしているうちに楽団員や指揮者と個人的な交友を持つようになり、インサイダーとして多くの見聞を持つようになる。定年退職のあとに、ウィーン・フィルの思い出をまとめたというもの。
 前半は指揮者や演奏家の思い出。指揮者で登場するのはフルトヴェングラーベーム。彼らを懐古すると同時に、カラヤンやその次の世代の指揮者を切り捨てる。そうするのは著者が昔のウィーン・フィルの音を懐かしがり、価値があるとしているから。そういう傾向は楽団員の話でも同じで、昔はウィーン・フィルの楽団員になるには、ウィーンおよびその近郊の生まれで、ウィーン・フィル楽団員のレッスンを受けている男性でなければならなかった。つまりは「ウィーン風」とされる演奏様式を血肉にしているものでなければならないというわけで、この考えには日本の「一子相伝」に近いものがある。だからコンサートマスターになりながら、指揮者に転向したワルター・ヴェラーを惜しがる。今は、女性団員もOKになり、いまはいない(はずだ)がいずれは東洋人の楽団員も生まれるだろう。雇用の機会均等の原則はこういうところにも貫徹するようになった。
 クラシック音楽を愛するというのは、どうしても懐古的であり、歴史的であり、保守的であることになる。変化しないものとして、過去を封印したレコードやCDを聞くという点でどうしてもそういう傾向や精神を持つことになる。それが老齢になるのだとすると、国際化・均等化している現代のクラシックには不満で批判的になってしまうのだ。著者もこの先、かつてのウィーン・フィルの音はよみがえらないだろう、それどころかクラシック音楽は死んでしまうだろうと嘆いている。
 でも、俺にいわせれば、すでにクラシック音楽は「死んで」いるのだ。俺たちクラシック音楽愛好家はいずれ訪れるクラシック音楽の「死」(それはまだまだ先のことではあるのだが)を先取りして葬送しているのだと考えている。クラシック音楽の「死」はヨーロッパの地方音楽、ある種の階級を代表する音楽であることをやめて、世界音楽になろうとし、時代遅れの烙印を押されるようになったときに始まっているのだ。

 作中で言及のあった(と記憶する)演奏
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