odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ヴェルナー・テーリヒェン「フルトヴェングラーかカラヤンか」(音楽之友社)

 ヴェルナー・テーリヒェンは1921年生まれで、若い時に戦争に出た。そのあと、1947年にベルリンフィルの打楽器奏者として雇用され、主席演奏家を35年務めた。ベルリン・フィルの理事にもなり、各種の折衝を支配人や音楽監督と行った。たぶん1985年ころに引退したのだろう。さて、このような経歴でステージの上から二人の20世紀を代表する指揮者の体験を語る。

 快楽的聴取者としての自分には、「フルトヴェングラーカラヤンか」という問いはなく、フルトヴェングラーカラヤンも、になる。すなわち、ベートーヴェンワーグナーフルトヴェングラーで、リヒャルト・シュトラウスプッチーニカラヤンで、ロッシーニヴェルディアバドで、マーラーはラトルで聴きたい、という具合。シューベルトブラームスブルックナーはどうしよう?
 なので、この本は、組織のリーダーとかプロジェクトのリーダー、企業の経営者という視点で彼ら二人を見ることになるだろう。そのとき、フルトヴェングラーは組織や起業にはほとんど関心をもたず、音楽という芸術の再現に情熱をもっているアルチザン、それも特別高い教養をもっている、ということになるのだろうか。その没入ぶりとあまりの幼児性(ステージにおいての)に演奏家は心酔し、それこそ無償で共働するという次第。この本ではベルリン・フィルが誰かの指揮で演奏しているとき、いきなり音が変わった、指揮者には特に変化がないのに。それはフルトヴェングラーが客席に姿をみせたからだ、という有名な挿話が語られている。真偽は問わない。それが楽団員の体験であり、多くの楽団員が共有していることが重要。彼らはメンターとして彼を見ていたのかしら。
 一方のカラヤンは世俗的な野心家。もちろん演奏の質は超一級であるが、それよりも自分とベルリン・フィルをブランドにして、世界に君臨することを望んだ。1950年代、ベルリン・フィルは特に給与の高いオケではなく、むしろ放送オケのほうが給与が高かった(なるほどベルリン放送響の録音は当時たくさんあった)。それをカラヤンは楽団員を高級ホテルに宿泊できるようにし、演奏旅行や録音の収益をベルリン・フィルと分かつことで彼らの収入を増やしていった。ザルツブルグの音楽祭を主催し、ベルリン・フィルと共演することで、この音楽祭の名声とチケットの値段を高めた。その種の恩恵をオケが受けているとき、楽団員は指揮者に忠実であった。
 しかし、練習と演奏の現場では彼は権威的に振る舞い、注目が自分のみにあつまるようにする。人事に介入し、オケの民主的運営の上に彼の決断が来るようにする。練習の現場で彼はトスカニーニのように激怒することはないが、遠回しの報復を行う。それは次第に楽団員の鬱屈になり、不満を高めることになる。指揮者が大音響を好むので、多くの楽団員が難聴になることもそういう不満の原因になるのだろうか。
 そして、1980年代になり、カラヤンが70代になったときに、齟齬が生まれる。もちろんザビーネ・マイヤー事件(初めての女性演奏家ベルリン・フィルに迎えるというカラヤンの決断を団員が拒否)であるが、この本ではほかにもカラヤン指揮者コンクールやベルリン・フィル・アカデミーの失敗にも触れている。カラヤンがこの種の新規プロジェクトを遂行する情熱を持てなくなったときに、楽団員は叛旗を翻した。
 この後のベルリン・フィルの主席指揮者に選ばれた者たちはカラヤンの失敗を繰り返さないように注意深くなっているように見える。同時に、オケの運営もフルトヴェングラーの時代とは変わっている。指揮者兼音楽監督の支配から、専門のマネジメントチームが支えるという具合に。そのようにオケのマネジメント、ソリストや指揮者のマネジメントが大幅に変わる組織の変化として読んでみた。オケと企業の仕組みは相当に違うので、そのままビジネスの現場に応用できるわけではないが。
 さて、もう一度再現芸術家としてのフルトヴェングラーカラヤンをみてみよう。この本に即して比喩的にいうと、フルトヴェングラーの芸術はその場にいた演奏家と聴衆に価値体験を与えるものだった。その場において、人々は生が高揚する一瞬を経験し、忘れがたくかつ再び体験したいとおもう稀有な状況を作り出すことができた。カラヤンは完璧なプロの仕事と名人技で人々を圧倒した。そこに「カラヤン」というブランドを括り付けることによって、人々に高価な価値があると思わせることができた。

  

<参考エントリー>
2018/04/26 中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書) 2007年