ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ (長いのでDFDと略すのが慣例。ここでもそうします)は一度聞いた。
彼を通じてフルトヴェングラーを見た思いがしたが、本書はDFDによるフルトヴェングラーの思い出。自身のキャリアアップのきっかけを作ったためか、DFD自身もフルトヴェングラーの思い出を大事にしている。そこからクラオタとしては見過ごせない情報をメモしておこう。
・DFDは1925年生まれ。30年代からフルトヴェングラーの指揮を聞いていたようだ。
・1950年、最初の妻の縁で、フルトヴェングラーの前で歌う機会を持つ。演奏したのはブラームスの「4つの厳粛な歌」。あと数回、私的に歌を聞かせる機会があり、ウィーンフィルとの「ドイツ・レクイエム」のソリストになるオファーを受ける。
・1951年1月24-25日に「ドイツ・レクイエム」の演奏会でソリストに抜擢。録音の一部(DFDソロのところ)にミスがあるので、指揮はフルトヴェングラーで別の歌手による演奏を加えた折衷盤がでているとのこと。
これはDFDが登場していない1948年のストックホルム管との演奏。
・1951年8月19日に、マーラー「さすらう若人の歌」を共演。
同じ日のメインプログラムであるブルックナーの交響曲第5番の録音もある。
・1952年、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」スタジオ録音でクルヴェナール役に抜擢。DFDは声質が会わないのと勉強不足(27歳だものな)で固辞したが、フルトヴェングラーに説得されたとのこと。DFDは舞台裏の事情を暴露していた(フラグスタートが第2幕の高音をだせないので、指揮者やディレクターらによる数時間の協議のあと、シュヴァルツコップフに歌わせて切り貼りすることにした。また、一回の録音セッションは15分。その間中断がなかった。なるほどそのおかげであのうねりが生まれたのだね)。
・録音セッションがうまくいったので、時間とスタジオがあいた。フルトヴェングラーの提案でマーラー「さすらう若人の歌」も収録される。
・このあと、同じマーラーの歌曲をワルターと共演したが、ずっと速いテンポだった。それを聞いたフルトヴェングラーは気に入らなかった。DFDとワルターの共演盤はみつからなかった。かわりにワルターのステレオ録音。なるほど、フルトヴェングラー盤では19分弱がワルター盤は16分弱。
・1954年4月にフルトヴェングラー指揮でウィーンフィルとJ.S.バッハ「マタイ受難曲」を歌う。DFDによると、小編成で透き通った響きにするピリオドアプローチを学んでいたのに、フルトヴェングラーの指示は濃厚なロマン派風なので、面食らったとのこと。フルトヴェングラーのアプローチは「(DFDが歌った)イエスという人物には特有の雰囲気が漂っている。それを表したいなら弦楽器の和音をまず受け止めろ」という文学的思想的な方法。
フルトヴェングラーはピリオドアプローチを「憎んだ」という。作品への忠実さをはき違えているから。生きた音楽が生まれないから(19世紀生まれのカザルスもそうだった。アドルノも好まなかったと思う。一方、フルトヴェングラーとそれほど年の差がないオットー・クレンペラーはピリオドアプローチを受け入れた)。DFDによると、これは「ワーグナー的態度」なのだそうだ。同意。
・フルトヴェングラーは1933年にシェーンベルクから亡命するよう勧められていた。でもフルトヴェングラーが残ったのは重病の母がいたためだという。ナチには批判的であったが、周りはナチシンパに見られていたとDFDはいう。
〈追記2023/12/24〉
中川右介「戦争交響楽」(朝日新書)から
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ウィーン・フィルハーモニーの関係者によると、フルトヴェングラーの出演料は、ベルリン・フィルハーモニーからのものは妻の口座へ、ウィーンからのものは愛人たちの口座へ送金されていたという。フルトヴェングラーには多くの愛人がいて婚外子がたくさんいた。その数は本人にもよく分からないらしいが、確認できるだけで十三人という。彼にはこの子供たちの養育費を稼がなければならない事情もあった。国外での仕事がなくなれば、愛人とその子供たちは生活できない。この大指揮者が亡命できなかった理由のひとつが、この扶養家族の多さにあった。(P143)
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とのこと。フルトヴェングラーが亡命しなかった理由は他に、高齢の母の介護のためとする説もある。
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ベルリン滞在中の三七年一月二日に、近衛はフルトヴェングラーに呼ばれ、自宅を訪ねた。菅野冬樹著『戦火のマエストロ近衛秀麿』(NHK出版)によれば、アメリヵヘ亡命したいのでストコフスキーと話をつけてくれと頼まれたという。近衛がストコフスキーに取り次ぐと、彼は快諾したのだが、フィラデルフィア管弦楽団の共同監督をしていたユージン・オーマンデイ(一八九九〜一九八五)が「ナチスに加担した指揮者をアメリカへ迎えることはできない」と反対した。ユダヤ系であるオーマンディとしては許せなかったのだろう。(P173-174)
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とある。1930年代にニューヨークフィルはフルトヴェングラーを招きたがっていた。一度呼んだときにはナチスが横やりを入れて招聘をやめさせてしまった。それでもフルトヴェングラーはドイツを逃れる方法をさぐっていたようだ。
<参考エントリー>
中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書)
中川右介「戦争交響楽」(朝日新書)
・フルトヴェングラーが亡くなった日、ウィーンではフリードリヒ・グルダ(彼も20代。1930年生まれ)がリサイタルをしていた。グルダが訃報を伝えると、聴衆には茫然自失となる者も、驚きの叫び声をあげる者も。
・19世紀生まれの演奏家の中で、フルトヴェングラー一人が神格化された。
「あまりに早く老成し巨匠になった(P98)」
「彼は時代に逆行している人たちに近づいているように思われた(P99)」
「特異な生育家庭(家庭教師に育てられて学校にいっていない)で形成された彼の世界観には限界があった(P137)」。
「彼の演奏における本質的なもの、自然でまねのできない統一性を理解する者は、彼の人間性を表す(P139)」
「彼にとって重要だったのは、すでに失われつつあるものを救うこと(P141)」。
「大多数の指揮者にとって自明であったが失われつつある伝統を、自らが演奏に邁進しつつ、いくらかでも取り戻す(P141)」
(そういう考えでいると、戦後の有名指揮者であるトスカニーニ、カラヤン、チェリビダッケらは伝統の継承者ではなかったことになる。一方、フルトヴェングラーが残したい伝統は19世紀後半から20世紀初頭にかけてのドイツで流行った解釈であるのかも。そうすると継承者はフリッチャイ、コンヴィチュニー、カイルベルト、ケンペとなるのか。彼らの芸風を継承するはずだった1920-40年生まれのドイツ人指揮者で、世界的名声を得る者は生まれなかった。この世代はサヴァリッシュ、スウィトナー、ケーゲル、マズアくらいか。フルトヴェングラー没後に研究会を開いたのはメータやバレンボイム、ラトルなどのドイツ以外の出身者だった。ヨーロッパの楽団は積極的に国際的な人材を受け入れたので、伝統遵守は廃れた。)
(「神格化」の対象になるものや可能性を検討されるものが、ドイツ語圏の人々に限られることに注意しよう。圏外にいる人、たとえばコルトーやティボー、フランスやイギリス出身の指揮者はそこに含まれることはない。個人の「神格化」概念はたぶん全体主義運動と密接な関係があると思う。ドイツ語圏内のほかに、ロシアの演奏家が「神格化」されたり、極東の日本の聴衆が「神格化」を好んで行った。これらの国が全体主義であった時期と一致している。)
このあたりが重要な指摘かな。DFDはフルトヴェングラーを「ユピテル(ジュピター)」と呼ぶほどメンターとして尊敬していたことがうかがわれる。でも、年が離れていたうえ、共演の機会は数年間と短く、ソリストとしてフルトヴェングラーの指示に必ずしも従う必要がないので客観的にみられる立場で見ている。この回想は没後50年も経ていただろうから(フルトヴェングラーが死んだ年齢を超えているから)、遠い昔のできごとは他人のことのように客観視できる。それが上の評価。ただ、ナチドイツと戦後処理を体験しているものなので、フルトヴェングラーにはとても同情的。ナチ加担と艶聞を口にしない。
DFDがみるところには、本来は作曲者として認められたがったが、あまりに古風でストイックな作風はほとんど認められず、指揮ばかりで有名になって仕事がそればかりになる。マーラーやリヒャルト・シュトラウス、プフィッツナー、ヒンデミットのような指揮もする作曲家になるという夢があっても挫折し続けた。そのうえ、政治が芸術を牛耳る時代で、政治的な立場を表明し続けることが必要になった。これらのコンプレックスやストレスが、フルトヴェングラーを複雑にしているのだろう(それ以前の演奏家や戦後生まれの演奏家はそこまで追い詰められることがない)。
日本では21世紀になってもフルトヴェングラーの需要がある。2012年にDFDが死去した後、雑誌にこの翻訳が連載されて、2013年に単行本になった(そのさいにDFDの記憶違いを翻訳者が訂正している)。DFDは学術書(「ワーグナーとニーチェ」)を書くくらいの知識人だが、これらの思い出は本人が書くのではなく、だれかが聞き取りをし、勘違いを修正するドキュメンタリーにしてほしかった。そこで他の人の証言(最後の奥さんのエリーザベトや秘書その他の回想録、音楽家の回顧録など)と突き合わせると、クラオタは喜んだのに。
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DFDの評伝を読んだこともある。