odd_hatchの読書ノート

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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫) 「芸術」こそが世界統一(あるいは民族統一)の中心になる信念は全体主義運動に敗北する。

 クラシック音楽を聴き始めたのが1979年5月。何も知らないままに聞き出し、半年後にはフルトヴェングラーの名を知っていた。その演奏を聴く機会はほとんどなかったが。そして突発的にこの文庫が発売された。さっそく読んでみたが、当時の学力では無理だった。たぶん「すべての偉大なものは単純である」「作品解釈の問題」でつまずいたからだろう。
 それを放置すること25年、そして再読。今度はわかりやすかった。1986年生まれの高名な指揮者はやはり19世紀末ドイツの芸術観に基礎を置いていることがよくわかった。そこには「芸術」こそが世界統一(あるいは民族統一)の中心になるものであるという考えがある。なぜ学問や思想でないのかというと、芸術には次のような力があるからだ。(1)芸術は一気に全体を見渡すことができ、しかも細部に真理がこめられている。そのような世界観は芸術以外持たない。(2)芸術は未来を構想することができる。あるいは未来(あるべき姿)が先取りされる。(3)その一方で過去とのつながりを持っている。こんな具合に芸術は、永遠に変わりないものを指し示しているのであり、かつそこには人々(この範囲はあいまい)を結びつける力を持っている。だから、当時の分裂したドイツを統一し、しかも周辺各国の仕組み(民主主義であったり、王制であったりする)よりももっと強固に人々がつながることができるということになる。これは別にフルトヴェングラーの独創というわけではなくて、ワーグナーにもニーチェにもみられる考えである。
 ポイントは、それが1930年代になってもフルトヴェングラーの中にあり、ナチズムや個人主義貨幣経済にどっぷりとつかることによって発生することになる根無しの考え)と対決しているということ。フルトヴェングラーの考えは素朴なものであり、芸術=世界であること、それを擁護することが人間の本懐であるという信念になっていた。だから、「ヒンデミットの場合」でナチスと対決して敗北し、戦後ドイツで彼の理想は実現されずカラヤンのような個人主義に取って代わられたのだ。その点では、彼は19世紀の芸術館を体現した最後の(象徴的な)人物であり(同期の指揮者、演奏家は彼の没後も活動をしたが、上記に意識的であるものはまずいない)、20世紀後半からみると道化のような悲劇を生きた人であった。
 彼は学歴からいえばないに等しく、学者の一族の末裔として家庭教師のついた人だった。彼の学識は貴族的なものである。貴族性というのは、上記の芸術観を支援する彼の本性であっただろう。芸術を鑑賞するには、こちらから芸術作品とその作家に行かなければならず、それなりの知性と知識を必要とするのであり、それを可能にするのは知性の貴族であることが要求されるからだ。
 昨今の音楽家は、知性の貴族性を発揮するものはまずいない。だから「ワーグナーの場合」でニーチェワーグナー解釈を彼の著作と通じてしっかりと説明していることに驚いたのだ。少なくとも「悲劇の誕生」「反時代的考察」「ワーグナーの場合」などニーチェが書いたワーグナー文献をしっかりと読んでいなければ話せないような事柄だからだ。フルトヴェングラーの生きていた時代には何度かニーチェがブームになっていたし、ワーグナーを勉強すると必ず名前の出てくるものだとしても、いやあびっくりしたなあ。
2005/05/10
 上記のような芸術観では、芸術はトポスと深い関係にある。というよりも、その場所から立ち上ってくるところに芸術があるのだ、とフルトヴェングラーはいいたいはずだ。「ヴィーン・フィルハーモニーについて」の公演ではウィーン・フィルがその土地生まれの楽団員で構成されていることを強く指摘し、そのことによってヴィーン・フィルとその土地の作曲家の個性が表現できるとしている。(ちなみに講演は1942年。その年、オーストリアナチス・ドイツの占領下。そこにあってフルトヴェングラーはヴィーン・フィルの自治を評価する発言を行っている。勇気のあることだ。)
そのように、芸術はその場所を離れてはありえない。にもかかわらず、フルトヴェングラーには二つの矛盾があって、ひとつは芸術が汎世界的なものであって、優れた芸術はどこに行っても受け入れられるという考えをもっていること、さらにその考えに基づいて各地での演奏活動を行うこと。
2005/05/11

 フルトヴェングラーとほぼ同世代と思われるマックス・ピカートは「沈黙の世界」(みすず書房)でラジオと町の喧騒を激しく非難した。それらの音が生活に充満することによって、沈思すること・自らに向き合うことから疎外されること、そして自分の好まない音を暴力的に聞かされること、それらによって自ら考えることをしなくなることを恐れたのだった。たとえ、当時の音響技術が貧弱であったとしても、フルトヴェングラーのSPは騒音を出す側にいることになる。「芸術」活動の最大の推進者であっても、生活を貧しくする側になってしまうという問題。フルトヴェングラーが各地で活躍し、彼のファンになることはすなわちSPやLPレコードを買い求め、それを自室で鳴らすことになる。
 上のこととあわせ、「芸術」を普及するべく活動すればするほど、「芸術」がよってたつ基盤を破壊していくことになる。


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