odd_hatchの読書ノート

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テオドール・アドルノ「音楽社会学序説」(平凡社ライブラリ) 全体主義と文化産業が主導する音楽の有り方の批判。

 最初の論文で聴取者の類型を試みている。エキスパート、良き聴取者、趣味型聴取者、ルサンチマン型聴取者、娯楽型聴取者、無関心など。これらの類型はわかりやすい、我々の現状に一致している、それに該当するようなネットへの書き込みがある、など、俗耳に入りやすいもの。自分はどれかなあ、良き聴取者でありたいと思いながらも、趣味型か娯楽型になってしまうのだろう、凡俗で凡庸な聞き手なのだから、と自分を反省することにもなる。
 とはいえいくつかひっかかるのは、(1)この類型はどのくらいの妥当性があるの? 科学的な調査でもって分類可能なのか、またこの類型にぴったりあてはまるの? ここらへんアドルノ先生は、分類や統計でもって分類したんじゃないよ、社会と音楽を考察するところから得られた思弁的な概念類型だよと書いている。ということは、この類型をあてはめることに終始すると、それこそ哲学の娯楽的「聴取」そのものになってしまうよな。ここからどのように考えを進めるかを読者に求めているのだよな。(2)音楽には「高級」と「低級」があって、その差は越えがたいものであるというのだけど、アドルノ先生のいうような二分法で分類することは可能なの?「軽音楽」の章で低級音楽にもいいものがあるような言い方をしているから、アドルノ先生もグレーゾーンの存在を認識しているのではないか。というか、シュッツはだめ、バンドネオンは低級な楽器などとアドルノ先生の趣味(たぶん19世紀型の幼児からのエリート教育の賜物だろう)が反映された恣意的な分類なのではありませんか。
 アドルノ先生は19世紀末の生まれだから、そのころのロマン主義的な音楽感は色濃く残っているような気がする。アドルノ先生にとって芸術は、現実問題を解決できるものであってほしいのだろうね。その役割というか機能を持っているのが「高級」で、聴取者はそれを聞きとることが必要というのだろうな。この芸術の見方は古いように思えるが、これは自分がアドルノを理解していないことによる「藁人形批判」かな。

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 アドルノは、全体主義と文化産業が主導する音楽の有り方を批判する。それは本来的なものではなく、人を堕落させ、主体的であると思わせて実はそれらの支配下にあるようにするからだ。自分の考えに近付けるならば、アドルノマルクスのように(本人は嫌っていたが)、ひとあるいは共同体は国家と資本(および宗教)によって疎外されているという認識を持っていた。そして疎外体である国家や資本、宗教にからめとられた現在のひとや共同体のあり方を音楽を媒介にして批判しているということだ。ただ、アドルノの認識だと国家や資本、宗教から音楽を開放する戦略はないということになる(実際、アドルノの時代よりさらに進むと、ますます音楽はひとや共同体から離れていて、自立できなくなっている)。アドルノの不機嫌さは、われわれの孤独や疎外感に対応しているということになり、われわれはアドルノのような危機感をもっていない(持てないほどに国家や資本にからめとられている、ということになるのかな)。
 所収論文一覧
1.音楽に対する態度の類型
2.軽音楽
3.機能
4.階級と階層
5.オペラ
6.室内楽
7.指揮者とオーケストラ−社会心理学的に見た様相
8.音楽活動
9.世論・批評
10.民族
11.現代音楽
12.媒介


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